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【テレビお笑い】・「また出た凡庸バラエティ批判」

スギちゃん、飛び込みで大けが テレ朝番組収録中
とにかくスギちゃんには、一日も早く良くなってください、としか言いようがない。大変だなあと思う。

今回、書きたいのはスギちゃんのケガ(事故)そのもののことではない。
この件に端を発し、「テレビがお笑い番組を通していじめを助長している」という主張を読んだからだ。
しかも、それを書いたのが生真面目な人ではない。私が前から、ユーモアのある文章でひそかに尊敬していたエッセイストから発せられた言葉だったので、ショックなのだ。

この問題は意外に複雑なので、一つひとつについて書いていきたい。

・その1
まず、スギちゃんにかぎらず、お笑い芸人が常に無理なことをやらされて、それを視聴者が見下して笑っている、という固定的な構図があるのだろうか?

体力的に無理をしているのなら、オリンピックの選手でもスタントマンでも同じである。お笑いにだけ「無理をする必要がない」と考える方がむしろおかしい。
ただし、スポーツの場合、その「無理」の方向性がはっきりしていることは事実だろう。
私は、現在のスポーツ教育事情を知らないが、参加人口を考えるとお笑い芸人など比べ物にならないくらい、ひどいことが行われてきたと思っているが、それはここでは置く。

ここで、「無理をしている人間を笑う」ということに対する批判が、スポーツやスタントマンの「無理」と区別すべきラインである、と仮定しよう。

実際そういうことはあるのか。

それは、ある。

そして、そうした要素は「お笑い」に、ぜったいにはずすことはできない。

私が読んだテキストでは、「人をいじめて笑いをとっている人間が、いじめの批判でも別のいじめ対象を見つけて批判することでしかいじめを否定できないんだ」ということが書いてあったが、それとこれとはまったく別の話だと、自分は考える。

私が読んだテキストでは、ドリフあたりにまでさかのぼって批判されていた。
まあ、ドリフが「低俗」として批判されてきたのは、リアルタイムから変わらないのだが、それ以前に「ドリフ的ないじめシチュエーションの笑い」がまったくなかったと言えば、ウソになるだろう。

だから、「いじめシチュエーションの笑いはよくない」という一般論は、ぜったいにありえない。
ただし、個別の作品評価はできる。同じいじめのシチュエーションでも、「これは笑える」、「これは悲惨すぎて笑えない」というトーンの違いは出て来る(「ココロコネクト」のドッキリの件は、後者だろう)。

やれどこの何の寿司がうまいとか、この映画よりあの映画の方が面白いとか、さまざまな「評価」がなされてきたが、唯一「お笑いバラエティ番組」のみが、だれがつくっているかも、だれが出ているかも、どんな内容なのかもチェックされず、ただ十把一絡げに批判されてきたことは、何度書いても書き足りないほどである。

・その2
「お笑いで身体をはっているから偉い、という風潮がおかしい」という論調も、ずいぶんと遠くまで来たものだな、と感じる。
80年代の中盤あたりまでか、とにかくその頃には、芸人が「身体をはっている」という意識すら視聴者にはなかったのである。
たけしが何かのエッセイに書いていたが、彼の子供の頃には学校の先生が生徒に「おまえはバカだから芸人になるしかないな」と冗談めかして言っていたそうである。

「バカな役どころの人間は本当にバカである」、「プールに突き落とされるなどのひどい目にあっている芸人は、ただぶざまさが面白いのであって、何も芸がない」と、80年代までは思われていた。
そこに「リアクション芸」という概念が出て来て、はじめて視聴者は「ああ、あれも芸なんだ」と認識した。
稲川淳二あたりがその元祖だったか?

つまり「身体をはった芸が認められる」ということは、「芸人が芸人として視聴者に認識される」という一種の価値転換というか認識の変容だった。

ここから、「身体をはった方が偉い」、「より危険なことに挑戦した方が偉い」というふうになっていったかというと、別になってはいない。
そう思いこんでいるのは、テレビを観ていない証拠である。

まず、不況のせいか、身体をはった罰ゲーム的な企画は、おそらく量的には減っているはずである。
また、「過激だから面白いとはかぎらない」というのは、つくり手がいちばんわかっていることだろう。

スギちゃんは気の毒としか言いようがないが、インストラクターはいたというし、安全面に関しては少なくとも現時点では追及のしようがない。また、現場の安全対策は、お笑いだけがやるべき問題でもない。
「安全対策」と、「いじめシチュエーションの笑い」は、まったく別の問題だと私は考えている。

・その3
「だいたいお笑い番組が多すぎる。昔は週1本くらいだった」という、よくわからんやつあたりのような文章も読んだ。
しかし、「視聴率100パーセント男」と欽ちゃんが言われた70年代後半でも、少なくともお笑い番組は三本はあったことになる。
私の記憶だけでも、70年代には「笑点」、「大正テレビ寄席」、「やじうま寄席」、「笑って笑って60分」、純粋なお笑い番組ではないが、いじめと親和性がある番組として「スターどっきり(秘)報告」などが同時代にやっている。
私が読んだテキストを書いたエッセイストは、調べもしないで適当なことを書いているか、あるいは60年代後半くらいの、もっと古いことを言っているのか。
とにかく、脊髄反射的に適当なことを書いているなあ、とあきれた。

・その4
「いじめがよくないから」と言って、いじめる側を激しく糾弾するとそれがいじめになる。そんなジレンマは私でも想像できる。
だが、「テレビのお笑い番組」をなくしたからといって、いじめがなくなるとはとても思えない。
もちろん、私が観て笑えない番組、引いてしまういじめのシチュエーションはあるが、それは個別に批判すべきことであって、スギちゃんの件から「お笑い番組全体」を批判するのは、雑駁な意見だとしか言いようがない。

私は一連のツイートを観て本当にイヤな気分になった。それをつぶやいていた人は、オタクが侮蔑、いじめの対象になっていた頃に、それを厳然と批判した人だった(当時は「オタク」という言葉が定着しておらず、彼はパソコンオタクのことを「ハッカー」と呼んでいた)。
そのことに、90年代初頭だったか、私は非常に感銘を受けたが、その人が「いじめと笑い」について、この程度のことしか考えていなかったのだ、と思い、落胆したのである。

おれも縦社会のイジメやパワハラなんかは大嫌いで許せないと思っているが、「テレビに映っていること」からそっちに話を持って行くことはできない。
ダチョウ倶楽部の入る熱湯はぬるま湯だというし、「10メートル下のプールに飛び込むこと」がどのくらい危険なのかは、現時点での私の知識では判断できない。

さらに別の話をする。
ネットが普及する前までは、いわゆるサブカルエッセイストは、調べないで適当なことを書いていて、まったく問題なかった。
たとえば、今だったらバラエティにローラや鈴木奈々がよく出ていて目障りだと感じたとする、それがネット普及前の90年代半ばくらいまでなら、「なんだか知らないが生意気でうるさい女が出てきた」というようなことを、面白おかしく(もちろんそこが重要なのだが)書けば、それでエッセイとしての体裁が整った。

だが、現在は違う。「ローラがうるさい」ということは、一般人でもネットで簡単に共有できるのだ。

「なぜか知らないが実力もないのにテレビに出ているローラを、商業出版物にエッセイを連載できる作家が一刀両断して拍手喝采」というようなことにはならないのである。
そんな特権性は、作家にはもうないのだ。

また、ネットとしても、おそらく仕事場に設置してあるテレビを横目に、仕事のあいまに「コイツ気に食わねえな」とか、あるいはパソコンのヤフーニュースか何かを観て「こりゃけしからんな」と思って、ちゃっちゃと書いてハイ終わり、だと思っていたら、それも勘違いしていると思う。

プロの安易な仕事を見せられると、心底ガッカリする。

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