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【雑記】・「自己実現問題に関して」

ここまで不景気が続くと、あちこちの「社会派オピニオン系ブログ」などで(この名称は私が勝手に名付けた)、

「職業で自己実現を考えるのは、やめた方がいい」

という意見が、チラホラ出るようになった。

最初にお断りしておくと、
私は、その意見に賛成である。

もはや、まともな生活ができるかできないか、というところまで来ているのだから、選り好みをしていると人生そのものをあやまる確率が高くなる。
だから、繰り返すが「その意見には賛成だ」ということは強調しておく。

が、これから書くのは、その意見を表明するものの欺瞞性について、である。

・その1
私が見かけたブログでは、まず「なりたいものになるための教育」から、「他人のためによいことをしなさい、と訴える」教育に変えるべき、という意見だった。
それには私も同意する。

また、戦後教育が「他人に積極的にはたらきかけて、よきことをする」(「情けは人のためならず」)という考えから、だんだんと「他人様に迷惑をかけることをしない」という消極的な考えに移行して行った、という「流れ」に関しても同意する。

しかし、それでは教育現場での「自己実現教育」……「なりたい自分になるために努力しなさい」という考えは、それほど強力だったのか? というと、そう問題は簡単ではない。

たとえば、消費社会に対する過剰適応という批判があるかもしれないが、80年代の「オタクの考え」には、「自己実現」という項目は入っていなかった、と私は考える。
「オタクだから自己実現のためにクリエーターになりました」という人もいると思うが、もちろんオタクではないクリエーターもたくさんいるし、普通に仕事して家に帰ったらオタク、なんて人もたくさんいた(いる)わけである。
(「クリエイティヴではないオタク」を認めること自体が「オタクの欺瞞」である、という意見もあると思うが、ここではおく。)

次に、80年代には「黄金時代」といわれた「少年ジャンプ」のイデオロギー「友情、努力、勝利」がある。
ジャンプマンガを読めばわかるが、その作品群の主人公の行動規範は、ほとんどが「利他的」である。

学校の先生の言うことより、読んだマンガのことを子供が覚えているというのもよくある話。
ジャンプ以外の「ヤンキーマンガ」でも、実際のヤンキーはともかく、「利他的行為」が最も崇高であると描かれることが多い。

たとえば、バブル期の「クリスマスに高級ホテルをとっていいオンナとセックス」みたいな価値観にはこの「利他的行為」は入っていないかもしれないが、日本人だってバカではない。
そんな一本調子の「思想史」をつむいできたわけではない、ということは言っておきたい。

・その2
つまり、戦後日本では「利他的行為」は、「学校」ではなく言わば「路地裏の道徳」とでも言うべき醸成のされ方をしてきたわけだ(「本宮ひろ志」的。「ドラゴンボール」的生き方)。
そして、それが「景気が良かったから、衣食足りて礼節を知る、で、そうおさまっていた」のかというと、そういうわけでもない。
少年ジャンプ的イデオロギーでは、いまだに「利他的行動」が最も崇高なものとされ、そして「ワンピース」のようなメガヒットになっていることからも、それがわかる(「デスノート」の月(ライト)でさえ、最初の犯罪動機は利他的なものだったのだ)。

戦後の「利他的行動」の暗部としてはオウム事件があげられようし、団塊の世代の「学生運動」も、完全にではないかもしれないが「自分のためだけ」にやったかというととてもそうとは言いきれない。

私が読んだブログは、団塊の世代以降の「個人主義」をやや攻撃するような論調だった。だが、60年代の
「個人主義、利己主義」が、いったいどの程度妥当であったか、その後変化していったかについては独自の検討が必要であり、コトは批判すれば済むというものではない。
たとえば、60年代の若者の「個人主義、利己主義」は、現在の新自由主義経済につながってしまったという反省も当時を知る学者などの間では、あるようだ。

物事には順序というものがある。
「顔も知らない相手と結婚させられる」
「嫁入りした女性は、座敷にあがれず土間で食事しなければならない」
「外から嫁入りした女性は、親族の中で、旦那の妹より地位が低い(という地方が、あったそうだ)」

そういったことから逃れること、そのルサンチマンが、少なくとも70年代前半くらいまでの若者もの「自由の希求」の動機になっていたことは、容易に予想できる。それを否定できるか? できまい。

また、「団塊の世代」が、たとえば「金曜日の妻たちへ」のようなニューファミリーをだれでも望んでいたか、というのも、私には疑問である。
彼らは戦前的なしがらみをじゅうぶんに持っていた世代であり、よほどの都心部の金持ちでもなければ、「絵に描いたようなニューファミリー」になることはできなかっただろう。
当然だが、みんなどこかで妥協しながら生きているのである。

・その3
現在の恋愛の男女の不均衡、および「恋愛できなければ価値がない」という風潮に関して(「恋愛」は、「自己実現」の強固なアイテムである)。

このあたりも、やや頭のいい人たちは2000年代にすでに議論済みである。2000年代半ばの、オタク第二世代、第三世代から起こった「恋愛至上主義批判」は、第一世代がその辺を「うまくやり過ごしてきたために、ないがしろにしてきた」ために起こった。
当時、もてはやされたのは「脳内嫁」のような、「想像力」で補完するということだが、これは「想像力」がなければどうしようもない。
不況日本における「真の負け組」とは、この「想像力」が持てない人たちのことで、想像力ばかりは、養いようがない。
実は「脳内嫁」でさびしさをまぎらわすことができる人々は、まだしも幸福なのである。

で、そうなってくるとぶっちゃけ、買春のお世話になるしかない。
ここで、女性から反発を買うからなのか、フェミニズム的な自分の心情に抵触するからなのか、「売春制度を充実させるのではなく、女性とコミュニケーションがとれるスキルを早い時期から学ばせるべき」という男性の意見があるブログであった。
が、まあやらないよりはマシだろうが、私の経験からすると「同性の友達がちっともいないのに、なぜか異性にだけはモテる、それも表面的にではなく、結婚して子供ももうけている」人もたくさんいる。
同性とのコミュニケーションと、異性とのそれは根本的に違う、というのが私の考えである。

だから、コミュニケーションスキル向上の訓練で、期待したほどの効果はあがらないと思う。

それに、私は、そうした考えは欺瞞だと思う。
「性風俗に人間関係は存在しない」と、私が読んだブログには書いてあったが、タバコ一個買ったって「なじみのお客さん」ができるのが世の中である。
普通の恋愛や結婚におよばないかもしれないが、そこにはわずかながらも人間関係はあるだろうし、私個人は性風俗産業が孤独な男性を救っている可能性は、かなりあると思っている。

問題なのは、むしろ「女性に受け入れられるように」と「変化をとげた」ホモソーシャルな男性同士の関係にあって、「風俗を利用している男の方が、素人女性と恋愛をしている男より価値が低い」とされるような価値観の方にある。
あるいは、「人間関係がない性風俗」を否定する人は、「人間関係」というものに、逆に幻想を抱いているのではないか、という疑惑も、私にはある。
「仮面夫婦」なんて言葉も流行ったが、冷たい家族関係なんて、実際いくらでもあるのである。
(なお、性風俗そのものの社会的な妥当性の問題は、ここではおいときます。)

・その4
最後に。
「利他的行為こそ崇高」という教育を、「軍国主義」につながるからやめるべき、というのはもはやホコリをかぶった議論ではあるだろう。
そんなことは、確かにどうでもいい。そこから「利他的行為の大切さ」を批判する者など、ほおっておけばいい。

問題は、別のところにある。

それは、「利他的行為にも、楽しいものとそうでないものがあり、貴賎がある、という考えから逃れるのはむずかしい」ということである。

いわゆる「刺身にタンポポを乗せる仕事」だって、必ずだれかの役に立っている。
だが、実感することがむずかしいのだ。
仕事で自己実現を達成することはむずかしいが、「だれかの役に立っている」と実感することだって、同じくらいむずかしいのである。

「利他的行為イコール『戦争』」という考えは、確かにバカげている。
だが、「利他的行為をした者が、いったいどのような(心理的満足も含め)利益を得ることができるか」を、カリカチュアライズしたかたちで見せてくれるのは、戦争映画である。

戦争映画の中で、同じ「利他的行為を貫いた者」でも、犬死にする者と英雄になる者がある。
戦争映画では、「犬死にした者」は、「生き残った者の心の中に生き続ける」みたいなおとしどころを持ってくることが多いが、

果たして、平時に我々はそのような気持ちを持つことができるか?

そう考えた場合。

「だれかが見守っている、だれも観ていなくても、神が見守っている」という超自然、宗教の領域に入らざるを得ない。
いや、ぜんぜん飛躍した話ではない。究極的には、そういうことである。

私は、現状の教育システムで、そこまで教えることは不可能だと思う。

少年ジャンプの「友情」を描いたマンガの多くが、「超自然的世界観」を背景にしている理由も、実はそこにある(「ドラゴンボール」では、はっきりと「神」が登場する)。

私は、基本的にシステムを改善することは確かに必要だが、「システム整備(のみ)によって、世の中がうまくいく」という考え方には、反対である。

もちろん、だからといって宗教教育の充実や、金八先生のようなスーパーティーチャーを望むことも、意味がない。

我々は、「超自然」について公然と語ることはできない。現実問題として。

だが、語らざるを得ない。「利他的行為」を、完全に肯定するならば。

だれか、この難問について考えてみてください。
私は、ここまで書いて疲れました。

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