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【雑記】・「インテリワンフレーズギャグの時代は、とっくの昔に終わった」

以下は、おっさんのたわごとです。

twitterを利用するようになって、このブログの更新が減った。
twitterはお手軽で、反応も速いし、承認欲求はブログより満たされやすい。だからついつい書いてしまう、ということなのだが、短文でズバッとインパクトのあることを言った方がウケがいいので、いきおい、「ワンフレーズ」に(私以外でも)力を注ぎがちになる。
だが、それはこと政治、経済、哲学などのこむずかしい問題に関しては、時代に逆行していると思うのだ。

・その1
私が最も尊敬している知識人の一人(これ、英語的表現)が、マンガ評論家でもある呉智英である。
ネットでは、古典や知識そのものを重んじる彼自信が、ときどき勘違いや大きな間違い記述していることに関してバカにしきった発言を見かけるけど、それはひとまずおく。

彼の主張の展開の特徴は、とにかく印象的な「ワンフレーズ」を生みだすことだった。
「封建主義者」を名乗る、「すべからく~すべし」の問題、「人権真理教」という言い回し、「異常天才」という、小林よしのり称賛の言葉……。
もちろん、社会評論家というのは自分の「ウリ」であるワンフレーズをだれでも持っているものでもある。東浩紀だったら「動物化」とか。しかし、私にとってはとりわけ呉智英の言葉は魅力的に映ったので、ここに書いている。

また、「インテリゲンチャ」という、古臭い言葉を復活させ、「あえて」自分をインテリだと自己規定した。
そして「論争」で名を売った人でもある。「勝てる人としか論争しない」などとも言われているが、「勝てる人と論争」すると、問題が明確になるということはあり得る。
そのとき、彼は徹底的に「上から」相手に対して接するような文章を書く。

これらの態度は、すべて「発言の場」が非常に限られているときに効力を発揮するものである。
二十年以上前、呉智英がアカデミズムからも遠く、自身の主張を展開する場が出版界でもそう多くない頃にこそ、輝いた手法なのだ。
彼自身が「マンガが大好き」であることは間違いがないにしても、「マンガ評論家」を強く打ち出していったことも、戦略の一環であるとも言え、それは繰り返すが二十年以上前は有効だったのだ。

・その2
だが、今は違う。発言の場は、発言するだけなら万民にとってネットでいくらでもある。
呉智英自身も、大学で定期的な講義をし(今現在、どうだかは知らないが)発言に耳を傾ける者も多いだろう。
もはや、わざわざポーズとして孤高ぶったり、偉ぶったりしなくても、今の彼はじゅうぶんに孤高であり、偉い存在になった。と思う。
ただし、「芸風」というものがあるので、彼自身がいまだに二十年前の芸風を貫いていることを、私は否定しない。

で、こういう「態度」を取る人は知識人の中に現在でもかなりいる。どうも、知識人の態度としては定番のようなのだ。
もう一度整理すると、以下のようになる。

・尊大な態度を取る
・ワンフレーズで相手を叩きつぶすようなもの言い
・ワンフレーズで社会風刺的なギャグを飛ばす
・論争の勝った負けたが非常に重要
・とにかく「真実」を追究する

私が者を知らないだけなのだが、他のいろんなけっこう有名な人たちも似たような態度を取るので、どうやらこれは、たとえはヘンだが「よしもとの芸人」とか「人力舎の芸人」とかにそれぞれ色があるように、「高学歴でアカデミズムに関係しなおかつマスに発言している人が学んできた態度なのだな」と思うようになってきた。

・その3
結論から言うと、そうした態度は、ネット上ではもう古いと思う。
まず、尊大になろうがなかろうが、ネット上では関係がない。なにしろ立場も年齢も性別もわからない場合があるし、「私は偉い」と冗談めかして自己規定しようがしまいが、耳を傾けられない話は、けっきょく傾けられない。

次に、「学者だから、年長者だから尊大でいい」と思っているとしても、前述のとおり、ネット上で交錯する人間関係は匿名性が高いし、簡単に言うと「おれはおまえの生徒でもなんでもないのに、なんでそんなに尊大なの?」としか言いようがない。もちろん、目下の人間がネット上でも相手が年上だとわかったら、礼儀を尽くすのは当然だが、知らない人間に尊大になっても滑稽なだけである。

第三に、「ワンフレーズで人心を掴む」ことに、別にそれが仕事でもないのに腐心する、というのもおかしな話だ。
twitterの140文字という性質上自然とそうなる傾向があるのは否めないが、私がいら立つのは、まず「インテリな人々がバッサリ斬るような発言をする人々」が知りたいのは、バッサリ斬れるようなことではなく、「細部」とか「人生の機微」のような部分ではないかと思うからだ。

逆に考えれば、インテリたちの言う「ワンフレーズ」は、「細部」とか「情緒」、「義理人情」といったものを断ち切ったからこそ、成立するものが多い。

「日本は核武装すべき」
「日本は戦争すべき」
「小さいことは犠牲にして、大きいことを実現しろ」
「老人はさっさと死んで若者に席をゆずれ」
「無差別殺人の犠牲者は、単に運の悪い人」
「選挙に行かないやつには、選挙権はいらない」

いずれにしろ、「それを言っちゃあおしまいよ」というようなことばかりだ。
以上、思いつくまま列挙したが、私個人が賛同できることもあるし、できないこともある。
「義理人情を断ち切らないと提案できない」ことが多々あることもわかるが、けっきょくは義理人情を通さないと実現できないことばかりなのだから、言ったら言いっぱなしにすぎない、とも言える。

何が言いたいかというと、ワンフレーズでズバッと言えればカッコいいし、自分が何かを犠牲にして決断した気にもなれる。
だが、それは何も言っていないに等しいのではないか。

おれにとっては、オマエの決断など、知ったことじゃないのである。

何か気のきいた(と本人が思っている)ワンフレーズをネットで読むと、彼が放ったワンフレーズの後の、インテリのドヤ顔、あるいは、まったく空気の読めない顔、それらが浮かんできて、最近心底陰鬱な気分になる。

別の言い方をすれば、学者やインテリというのは少々変わり者で、でも「偉い学者先生だから、多少変なことを言ってもスルーしようよ」という態度を他人が取れるのは、リアル社会で実際に接しているからだろう。
しかし、ネットでは違う。

確かに、気のきいたワンフレーズを考えるのは大変だし、才能も必要だ(コピーライターのように)。
だが、現在は「細部」の表現の方が、よほど重要なのではないかと思う。

そういう時代なのだと、何の根拠もなくあえて断言してみたい。

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