« 【イベント】・「第21回 トンデモ本大賞 タイムシフト予約」 | トップページ | 【雑記】・「急に恐くなった」 »

【雑記】・「オタクはオタク内ルールでオタクを批判できない」

AKB総選挙が、テレビで生放送された。
翌日も翌々日も、テレビの朝の番組などでこの「総選挙」についての話題があり、どんだけしゃぶりつくすんだと思ったがとにかくAKB48にとっては、かつてのモーニング娘。のような「国民的アイドル」になったことの、区切りになったことは間違いない。

さて、おそらくかつてのモーニング娘。以上に、アンチが多そうなのがAKBである。
私個人は、もともと「テレビを最大限に利用した宣伝方法」ではないアイドルにピンと来ない、完全に古い人間だったので、「AKB」というプロジェクトに関しては距離を置いてきた。

やはり「同じCDを何枚も買って、目的を達成したら売ってしまう」ということに抵抗があったし、世代的には俗に言う「秋元商法」への愛憎相半ばする気持ちもある。

だが、「同じCDを何枚も買う」行為に関して、「他のオタク的消費といったいどこが違うのか?」という問いをネット上で観て、ハタと困ったわけである。


・その1
オタクとは、消費社会の申し子である。
オタクにとって消費は美徳であるはずだ。
「保存用、鑑賞用、布教用に、同じDVDを三枚買う」とか、
「税金」と称して、明らかに期待できない特撮映画を、「特撮映画」というジャンル存続のために観に行く行為などは、
本質的に「同じCDを何枚も買う」
ということと、変わらないことのように思える。

「ファンが消費によって、作品を支える」という考え方はオタクに普通に存在するものだから、そのデンで行くと、いわゆる「AKB商法」を批判できなくなってしまうのだ。

整理すると、
「『作品本位、鑑賞するために買う』という行為からは「同じCDを何枚も買う」ということはおかしい、という批判は成り立っても、
「ファンが送り手を買い支える」という行為が是となったら、「オタクとして」AKBヲタを批判することはできなくなる。

そもそも、売り手も買い手も何も疑問を持っておらず、「同じ曲が入っている同じCD」であることは買い手は承知しているのだから、「霊感商法」とも違う。「霊感商法」は、「霊がいる」と証明不可能なことを言ってくるから問題なのであって。

では、「同じCDを何枚も買う行為」を、どうやって批判できるかと言えば、
それはもう「常識」しかない。

別の言い方をすれば、倫理観、道徳観、経済観念、生活意識、そんなものが混然となったものでしか、批判することができないし、それは本来的に「オタク」の中にはないものなのだ。

前述のとおり、オタクとは大量消費社会の申し子であり、消費社会の忠実な子供でありたければ、消費し続けることは悪でも何でもない。

「大量消費」を悪と見なせるのは、その枠外に出ている者だけだ。

そう考えると、「AKB」というプロジェクトが、いかに「消費社会」の暗黙のルールを露悪的にさらけ出しているかがわかる。
しかも、たぶん仕掛けている方は、そんな「批評性」についてはたいして重きを置いていないはずだ。
「AKB」は何よりアイドルなのであり、アートパフォーマンスでもなんでもないのだから。

・その2
私の認識では、アイドルというジャンルの中で「どれだけがんばっているか」を問題にし、視聴者の嗜虐性にうったえたのは「アサヤン」時代のモーニング娘。からだと思う。
そうしたある種サディスティックというかマゾヒスティックというか、そういう路線はハロプロにおけるいわゆる「ハローマゲドン」まで続き、「ハローマゲドン」は事実上、失敗する。

いずれにしても、「モーニング娘。」がやってきた「『試練』系の仕掛け」は、もう少し泥臭いものだった。

それをもう少し都会的に洗練させるというか、残酷ショーとして意識的に仕掛けたのがAKBにおいて両極端な「総選挙」(総合評価)と「じゃんけん大会」(まったくの運)だろう。
かわいそうな美少女が、ものすごく大きな枠で言えば「運命」に翻弄される。S視点でもM視点でも、あるいは「感動路線」としても観ることが可能で、視聴者の解釈の範囲も広い。

今さら、地上波で生放送までやった状態でこんなこと考察してもアホみたいだが、「運命に翻弄される美少女」を提示した、という私の指摘自体は間違っていないだろう。

それは、オタクの系譜で言えば、「カリ城」のクラリスやナウシカなどの「受難の美少女たち」に直結する。
AKBのファンがそれらを好きかどうかは知らない。たぶん個々の意識の上では関係がない。
だが、もとから70年代半ば以降の、オタクも含めたサブカルシーンの中には、「受難の美少女」が組み込まれていた、ということはできる(まあ、後出しじゃんけんなんだけれども)。

最大の問題点は、アイドルたちが「生身の人間」であるということで、「AKB」批判が成立するとすれば、そこにこそキーがあるはずだ。
だが、アイドルたちの「人権」について考えるならば、他のあらゆる分野も同じ批判にさらされねばならない。
たとえば、オリンピックであるとか。
「苦労」を見世物にしているのは、AKBだけではないのである。

・その3
十数年前、「おニャン子」が人気があったとき、それでも「国民的アイドル」とは言い難かった。
むしろその「いい加減さ」を、「時代」が容認していた。「しぶしぶ容認していた」と言ってもいい。

それに対し、もしも「AKB」が今よりも強固な国民的アイドルになったとき、我々(別にファンってわけでもない、別ジャンルのオタク)は、その価値観から脱することができるのだろうか?

この問題は、オタク論的には非常にいろいろな要素をはらんでいる。解きがいのある、問いである。

かつて、アイドルとは「何も努力しなくていい(ように見える)」存在であった。
それはそれで、存在価値があったのである。「努力しない人生」を、一時的にせよ普通人の代わりに送ってくれるのがアイドルだったのだ。
現在の「アイドル」とは、AKB以外も含めて「努力」の象徴のように思える。

努力、運、華々しさ、友情、敵意、残酷性、そして大量消費……。
ここまで揃うと、なかなか太刀打ちできるものではない。

まあ、どんどん話がそれてしまったからこの辺にしておくが、「AKB」に死角があるとするなら、彼女たちが「若い」ということに尽きるだろうね。若さだけが、永遠ではないからだ。

だから、個人的には小林よしのり的なはしゃぎ方が、いちばんダメだと思う。
極論を言えば、女子高生がどうのとか言っていたなんとか言う学者と(その論理はまったく違ったものでも)本質的には一緒でしょう。

少女に世の中のもろもろを仮託して、いいわけないんですよ。
エンタメとして楽しむだけならともかく。

|

« 【イベント】・「第21回 トンデモ本大賞 タイムシフト予約」 | トップページ | 【雑記】・「急に恐くなった」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

芸能・アイドル」カテゴリの記事

評論とは」カテゴリの記事