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【雑記】・「上からMESEN」

「上に立つものが上から目線であることは当然ではないか。それのどこがいけないのだろう。社会全体の標準化圧力に同調していることを批判精神と勘違いした幼稚で甘えた連中の口にする言葉である。こんなものが批判の言葉として成り立つのは文明の衰弱以外の何ものでもない。」
……というのが、呉智英の仏教に関する著作(と言えばすぐわかると思いますが)に出てくる。

呉智英は、私が最も重視する思想家の一人である。その理由はさまざまであるが、まずは「まんが批評」の世界から、より大きな世界へと私を導いてくれた、ということがある。
(続く)

もうひとつ重要なのは、彼が「全共闘運動体験」を、その後の人生の中でどのように活かしていくか、を、きわめてオリジナリティのあるかたちで展開している、という点にある。
学生運動出身者で、エコに走ったりそのままの思想を受け継いでいる人や、逆に保守派に転向した人は山ほどいるが、呉智英は「全共闘体験」をなんとかそのままのかたちで後世に活かそう、と思っているようで、それが興味深いのだ。

さらに言えば、「何もかもがグチャグチャなカオスになった」学生運動の中で、「インテリ/大衆」という構図を意図的に保持しようとした評論家でもあった。
ぶっちゃけてしまうと、「学生運動は必然であった」と主張しつつ、80年代に入ってからは過去の「インテリ」の役割は終わりつつあった、それをあえて「インテリとしての自分」を強く押し出して行こうという、「意図的な時代錯誤」をセルフプロデュースした人であったと、私は考えている。

で、冒頭の引用に戻る。正直、「ああ、この言葉って彼がいやがるだろうな」と、「上から目線」という言葉を初めて聞いてから直観的に思った。で、そのとおりの批判をしている。

話題はこの後、「上から目線」は、「慈悲」とか「憐れみ」と同じ文脈のもとに語られているのだが、なんでそうなったのかがわからない。
ここには論理の飛躍がある。

私は、「上から目線」という言葉は、インテリ特有の態度を揶揄したものだと思っている。
呉智英氏の過去の著作における、他の人との論争を読んでみるといい。「論争相手と自分がどちらが上か」を、まるでガキ大将の縄張り争いのように「おれの方が正しいのは自明である」というやや尊大な態度で示そうとしている。
この時代、「論争」とはそもそもそういうものだったらしい。
相手にハッタリをかまし、萎縮したところをマウンティングしてしまう、というような。

ある時期までの他の「知識人」と言われている人たちの文章も、実に偉そうである。「論争」に勝つには、「そのような態度」が必要だったのであり、「慈悲」とか「憐れみ」とはまったく関係がない。
「目線」というのはあくまで「目線」のことであって、「憐れみから起こした行動」」を「上から目線」などと言うことは、あまりないように思える。

少なくとも、私が80年代、呉智英氏の「上から目線」を容認してきたのは、彼が「上に立つもの」だったからだろうか。ぜんぜん違う。
彼は80年代、大学でものを教えることはなかったし、(まんが評論については明らかに私より上だが)「思想家」としてもそんなに大きな存在ではなかった。だが、彼は(おそらく意図的に)尊大であった。
そんな彼の文章をなぜ読んだかというと、そこに一片の「真実」があるという確信が私の中にあったからだ。

そもそも、徒手空拳であった80年代の彼が、自分を「インテリ」とか「水車小屋の狂人」と自認し、それをアピールするということ自体が、今から考えれば一種のパフォーマンスであった。
パフォーマンスはパフォーマンスであり、ややヒドイ言い方をすればデーモン小暮閣下が「10万ウン十歳」を自認することと、何ら変わらない。

私はいまだに呉智英というのはたいした人だと思ってはいるが、メディアの変化に伴う認識のズレはいかんともしがたいと思う。それがこの「上から目線」の話題であり、
もう一方は、「生まれた子猫を投げ落として殺している」と文章に書いた女流作家をフォローした一文だ。
確かに、呉智英は以前から、動物愛護に関して異論を唱えていた。だから、その女流作家にシンパシーを覚えてもおかしくない。
だが、私がこの件で問題にすべきは女流作家の「肥大した自我」にあると思っている。
呉智英は、「子猫を殺している」ということをわざわざ文章に書いてウットリしている作家の「自意識」になぜ言及しないのだろう。それこそ醜怪な「自意識」の産物ではないか。

なお、呉智英の80年代の裏テーマは「均一化する大衆を、どのようにインテリとして育て上げるか」にあり、その流れとして「士大夫」という概念を持ち出していた。

外部から規定されない自由で均一な世界の中で、その世界を外部から批判・検討できる人々を育成するのが彼の80年代のテーマだった。
そして、注目すべきは、それは組織だたなければ「自分がそう思うからそう思っている」ということにすぎないということである。

呉智英自身は、それを「狂気」であるとエクスキューズすることによって「凄み」を獲得しようとしたが、「自我」とか「我執」を批判するとしたら、それは非常にあやういものになりはしないか。
「私は世間的に役に立つキチガイとして評価されたい」というのが、自意識の問題でなくて、なんであろう。

などと考える、今日この頃。

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