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・「戦後SF事件史-日本的想像力の70年」 長山靖生(2012、河出書房新社)

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文字どおり、戦後の日本SFにおける「事件」をポイントに語った日本SF史。
結論から言うと、オタク論に興味のある人は読んでおいた方がいい。

ネット上の書評を観ると、あれが入ってないだの彼が入ってないだの、いろいろ指摘がある。

このような「通史」的な書物、なおかつ年表をつくるのが非常にメンドクサイ「ファンをも含めた動向、『需要史』」において、「事件の現場」に居合わせた人が「おいおい、あれ(あるいは彼)が入ってないじゃないかよ」というのはたやすくもあり、仕方なくもある。
だから、「あれが入ってない」と書きたいのならば、書評する人は「なぜそれが入っていなければ戦後日本SF史に欠落があることになるのか」を、きちんと説明すべきだ。

はっきり言って、「そういうところ」をいまだにサボっているから、SF全体はカップルが「スター・ウォーズ」を抵抗なく観に行く時代になっても、「SF界」は閉じたままなんですよ(だっておれも恐くて入れないもん)。

・その1
まず本書で面白いのは、一般的にSFだと認知されていないらしい安部公房にかなりページを割いている点、現代アートやアングラ演劇などにも章をさいている点だ。
しかし、安部公房本人はSFを意識していたことはなんとなく察せられるものの、読売アンデパンダン展などの現代アートやアングラ演劇が、意識の上でも人脈の上でも、どの程度「SF」と関連があるのかはちょっとわからなかった(記述があったかもしれないが、はなはだ弱い)。

さすがに80年代後半ともなれば、芝居などをやってるクリエーターたちはSFやマンガ、アニメなどにも目配りしているだろうから関連しているのは当然で、それは別に指摘しなくてもいい。
60年代、70年代のつながりは気になるんだけどね。

なおジャンルとしての「幻想文学」に関しても、そりゃSFと関連があるのは私にだってわかるが、本書を読むと具体的には出版社側のスタッフと読者双方が、活字SF読者とかぶっていたことしかわからない。

もう一つ、面白いのは「80年代前半」のSF業界の雰囲気を皮膚感覚で描いているところだ。
「みんな80年安保を望んでいたのでは」というようなことが書いてあったが、「安保」という表現はともかく、80年代前半にSF界隈でいろいろな変化があったことは間違いない。

で、今まで書いてきたようなことを、「時間がなかったからまとめきれなかったのでは?」みたいなおとしどころにしてしまうと面白くない。
本作の裏テーマは「SF」ではなく「オタク」にある。一般的に、現在「オタク」と言われるコミュニティの母体となったのがSFファンダムだ、と言われるのでそれは当然と言えば当然なのだが、筆者の考えではオタクとは関係なさそうな現代アートもアングラ演劇も、どうしても入れたかった要素なのだろう。
だが、そうするとタイトルを「戦後若者文化論」とでもするしかなくなってしまうんだよね。そこがむずかしい。

本書ではサラリと書いてしまっているが、それは80年代当時の、宮台真司や中森明夫や宮沢章夫の「後に『オタク的』と言われるセンス、価値観」に対する違和感にも通じる。

「日本SF」を論じようとすれば、必ず周辺領域、あるいはレイヤーの違う「オタク」とか「サブカル」分野に触れざるを得ず、まとめきることができない。
それこそが、本書が(意図したのか結果的にそうなったのか)表していることだと言える。

・その2
(以下は本書とは直接関係ないです。基本的な感想は、以上で終わりです。)

なお、まえがきとあとがきで東日本大震災にともなう原発事故について、「SF的想像力の欠如が被害を大きくした」と書いていることについて。

ネット上のどこかの書評で批判されていたが、確かに、一度起こってしまった災害に「思想家」が何かを言うことはほとんどできない。しかしそれはSFにかぎったことではない。「思想」というのは平時の思考実験的な部分も含むので、「今、ここ」で何かが起こっているときにはなすすべもないのは事実である(小松左京の災害観に関しては、私はよく知らないので保留しておきますが、「未来予測」という点でSF作家がマスコミから相手にされなくなって、もうずいぶんと経つこと程度は知っています)。

で、「地道な災害復興の対応力と行政能力の方が、SF的想像力より必要だ」というのはド正論でもあるのだが、でもそれって「ぐずぐず言わないできりきり働け、この空想家が!」って言ってるだけ、ってことでしょ。

私はこうした指摘を「地道(じみち)論」と呼んでいて、まったくそのとおりで反論の余地はほとんどないのだが、「おまえの言いたいことはわかる。とうさんも若い頃は悪かった。でもやめろ」って言ってるのとそう変わらないよね。

いや、いやみじゃなくて本当に正しいんだよ。無敵の論理。だから、この考えに反発する人は、「地道」を完全に投げ捨てて反社会・非・社会的な人間になるしかなくて、そのために反論もネット上ではあまりない。
まともなオトナの立場だったらだれもがやめろっていう局面の方が世の中には多いし、ダサくてもつまらなくても言わなければならないこと、というのも確実にある。
たとえば極左的暴力革命とかオウム的カルトのテロとか、想像力が広がってそっちに言ってしまうことに警鐘を鳴らす、というのは、とても重要なことだよ。繰り返すけど。

でも、それでも、「地道に生きろ」っていうことと「もしかして現実に影響を(よくも悪くも)あたえてしまうかもしれない空想力」を、乖離させてしまってそのまま、ということには変わらないと思う。
なんとか結び付けようと努力している人は多いけど、簡単に答えは出ないんだよ。

で、そういうことを声高に主張する人は、たいてい自分は若い頃に、知的に楽しい楽しい経験をしている、知的エリート的な人ばっかりなんだよな~。
「ポストモダン思想は単なる反近代でしかない」ってのは正しいけど、いわゆる「地道(じみち)論」が、何千冊も本を読んでいる人から発せられる、内海桂子のツイッターのつぶやきとそう変わらない言葉が発せられる。

じゃあ、教養なんて積む必要ないじゃん!!

そういう人だけで勝手に膨大な本読んどけばいいよ。
と、どうしても思ってしまうんだよね。繰り返すけどこれは愚痴だよ。

でも、言わないと私は生きていけないんだよ。

「地道(じみち)論」は、80年代後半から90年代初めくらいに流行ったし、世の中が平和でも乱れてても、「おまえら落ち着け」って言えばいいんだから、常に需要がある(逆に原発事故以降、はしゃいじゃってる「思想」もあるよね。それは注意して見てください)。

だけど、「地道」の先は「表現力」の問題でしかなくなるんですよ。言ってることがシンプルすぎるからね。

「熱笑花沢高校」っていうものすごく面白いマンガがあるんだけど、あのマンガの最初の方で、主人公が横暴な先輩にたてついたら、青田赤道みたいなメチャクチャな先輩が、そのときだけはものすごいまともな説教するの。
「上のものにそういうことしちゃいかん」みたいな。
そういうガッカリ感が、「地道論」にはあるよね。

話はどんどん横道にそれてきたが、そういう意味では、私は夢みたいな妄言を言う人も信じないけど、あまりに当たり前のことしか言わない人も、信じないんだな。
だって、当たり前なこと言って嬉しいなんて、その人自体が変わっているか、別に何か幸福なことがあるか、に決まってんじゃん。

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