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2012年2月

【雑記】・「意味ないんじゃないの? シミュレーションなら。それと、破壊するために作品をつくらせることは、現実にはないよ。」

少々不快な話で申し訳ない。こんな記事を読んだ。

「はい。みんな課題持って来ましたか?では、机の上に出して、紙の人はそのまま破り捨てなさい。立体物の人は壊してゴミ箱へ捨てなさい。」生徒全員しばらく唖然とした状態で沈黙。
「傷つかない技術」を体験した授業

おれはこういう授業や、「こういう授業を受けて大変勉強になりました」という感性を、ぜったいに認めません。なぜなら、前提がおかしいからです。

シアトルではそういうリクツが通るのかもしれないが、「作品がダメだからひどいダメ出しをされる」、あるいは「忙しいからといって作品を観てもらえない」のと、「最初から捨てさせる前提で作品をつくらせる」ことはまったく意味合いが違います。
もしも現実に「観ることもなく破り捨てる」ケースがあったとしても、それはやはり「捨てさせる前提でものをつくらせるのとは意味あいが違う。
作家の安部譲二が、デビュー前に前科者だと編集者からさげすまれ、その悪意から掲載する気もない原稿をえんえんと書かされた、という話も聞いたことがありますが、その話を聞いて「それが現実だ、受け入れなければいけない」と思う人は、そうはいないでしょう。

それと別の話になりますが、大切なのは「シミュレーションだから許されるのか」という問題。

もうちょっとやわらかい話にすれば、時代劇の剣豪ものとかによくある、木刀や竹刀の試合で負けた者(あるいは木刀や竹刀の特性を利用して勝った者)に対する、「これが真剣ならばおまえは死んでいた」というダメ出しですね。
でも、真剣じゃないから死んでないじゃん、というリアルもあり得るわけです。「真剣でないこと」を利用してルール内で勝利できるケースもあるわけで、シミュレーションというのは実は絶対ではありません。
竹刀や木刀で人が殺されるケースもあるわけですから、問題は「真剣ではない試合」を「シミュレーションと認識するかしないか」という問題になります。
そして、その「認識」は、「道場」とか「師匠」とか、「戦いの状況」などによって後付けされるにすぎません。

話が飛躍すると思うかもしれませんが、戸塚ヨットスクールの理念などともつながってくる。
なぜなら、ヨットスクールの理念は「子供を死と直面させれば『リアル』が生じる」ということであり、それがシミュレーションの枠におさまりきれない(実際に死者が出た)というところに問題があるからです。
いったい、目の前で行われているのはシミュレーションなのか「現実」なのか? は、単に教師の認識の差にすぎません。
それらを受ける方が、死んだりケガをしたりすれば、たまったもんじゃありません。

そういう「シミュレーション」が、「これは授業だから許される」という枠内で免責される、ということは私はぜったいに承服できません。
たとえば、リンク先の先生は「おまえらに嫌われてもおれは仕事はなくならないよ」と言うことを言っていますが、その物言いをつきつめていくと、
「いきなり殴りかかってくる生徒がいたら教師はどうするのか?」ということに、実は、つながっていきます。
つながっていないかのようにふるまっているのは、「まさかこういうことをやって、殴ってくるやつはいまい」という教師側の勝手な見込みにすぎません。それは、やはり欺瞞でしょうね。

もしもこの先生が、怒った生徒からいきなりブン殴られたとしましょう。当然、生徒は退学です。刑事事件になるかもしれない。
でも、この先生が授業中に暴行を受けた、ということを、まったくなかったことにして生きられるでしょうか。
たぶん、無理でしょうね。
この先生、そこまでの覚悟はないと思いますが、それは「自分が決めたシミュレーションの枠外に出るものはいないだろう」という、勝手な見込みにすぎないんですよ。

また「剣豪」に話を戻しますと、「真剣の『試合』」においては「いきなりあらぬ方向から矢が飛んでくる」ことは想定していないわけです。
このように、シミュレーションは(当然ですが)それ自体にルールをもうけないと、無限の「掟破り」を想定しなければならなくなり、シミュレーションとしての意味が無効化します。
授業で「課題にしたがってものをつくる」というのが、学校における大前提の「ルール」であり、生徒は単にそれを守っただけですから、そこに枠外のルールを上乗せしてくるこの「授業」が、生徒にとって「学校内ルールへの信頼」を失墜させないことに関して、私は、
「アメリカってのは、民度が高いんですなあ」
と、皮肉まじりに言うほかありません。

だいたい、ディベートの授業をしろだの、ブタをクラスで育てておいて、それを食うのに議論しろだの、ぜんぶ「ルール内で不快感を醸成させる」という意味において、私は意味があるとは思っていません。
農家がブタを食うのと、クラスで飼うのとは、それだけですでに前提条件が違いますから。
理系的な意味でも、「実験」になってないですね違う話ですけど。

こういう実験に対する仕掛け側のドヤ感が、しぬほど不快です。
なぜなら、どんなシミュレーションを構築してもそれは「現実そのもの」ではないし、顔を出すのは、「生活に根差したところから来る残酷さ」ではなく、「つくり出された残酷さ」だからです。
確かに現実には残酷な仕打ちが待っているかもしれない。だけれども、それは非合理ではあれそこに到達するまでの「因果」があるわけですが、シミュレーションの場合は単に冷徹な、「頭で考えた」実験場があるだけです。

こういうのは一見自由だったり、「生徒のためを思って」と見せかけて、「学校、授業の制度」の、鉄壁の閉鎖性を保証するものにすぎません。
けっきょく、くだらん校則でギチギチにするのと変わらないんですよ。そういう意味では詰め込み教育の方がマシです。

なお、こういう「ショック療法」でタマシイを持ってかれてしまう生徒もいるのでしょうが、それこそ近代的なやり方ではないですね。
欧米なんだから、近代的にやれよおい、欧米。

私は大嫌いです。

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【イベント】・「新田五郎のぶっとびマンガ大作戦・出張版 第10回『ぶっとび映像VSぶっとびマンガ』」

「新田五郎のぶっとびマンガ大作戦・出張版 第10回『ぶっとび映像VSぶっとびマンガ』」

今まで新田五郎の機材ノイローゼ(もし機材が壊れたらどうしよう的な)とネタ不足、どう構成していいかわからない、などの理由により、このイベントとしては脇役に回っていた「おもしろ映像」を強く押し出そうとする、10回にふさわしい企画です。もちろんぶっとんだマンガも盛りだくさん!! ゲストは映像作家で「アニソンバカ一代」著者、イベント「おたく酒」主催のキムラケイサクさんです!!


出演:新田五郎
ふぬけ共和国・マンガ

ゲスト:キムラケイサク(映像作家、おたく酒)
今夜もおたく酒

アニソンバカ一代・キムラケイサクのよくあるblog

BAR 44SONIC

日時:平成24年4月21日(土)
Open13:50/Start14:10
#昼イベントです

場所:ムーブ町屋 ハイビジョンルーム

荒川区荒川7-50-9センターまちや
地下鉄千代田線・町屋駅0番出口より徒歩1分
京成線・町屋駅より 徒歩1分
都電町屋駅より 徒歩1分
料金:¥2,000(当日券のみ)

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【書籍】・「思想としての全共闘世代」 小阪修平(2006、ちくま新書)

[amazon]
個人的には「哲学をわかりやすく解説する人」として、きたろうとともに出演した深夜番組「哲学の傲慢」が思い出される評論家の書いた、全共闘運動とその世代に関する本。

冒頭の自分語りに「ゲゲッ、このパターンか」となってしまい、しばらく放り出していたのだが、本題に入ると運動をできるだけ俯瞰しようとした、よい本であることがわかった。

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【ポエム】・「呼ばれて飛び出て、また戻る」

笛を吹いて

この

人類が核戦争で 滅亡した
火星で(火星?)

笛を 吹いていると

いつの間にか

パンダの赤ちゃんの行列が

ハイハイしながら

手をふってきた

おーい!

おーーーーーーーーーーい!!

だが

パンダの行列は気づかない

もっと大声を出そうと

息を吸い込んだ瞬間、

気が付いたら 水星にいた

水星は

「水と安全だけはタダ」という国

だけど 家賃が

100億万円

ぼくは 泣いた

水星の 市街地の中心で

そうしたら

また パンダの行列が向こうから

やってきた

おーい

おーーーーーーーーーーーーい!!

ぼくは 手をふったが

「お金なら 持ってないよーっ」

という声だけが パンダの行列から

返って来た

パンダの行列は

ぼくの立っている 場所の

手前の角を右に曲がって

消えて

しまった

それと

関係ないけど

寿司って

うまいね

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