【雑記】・「意味ないんじゃないの? シミュレーションなら。それと、破壊するために作品をつくらせることは、現実にはないよ。」
少々不快な話で申し訳ない。こんな記事を読んだ。
「はい。みんな課題持って来ましたか?では、机の上に出して、紙の人はそのまま破り捨てなさい。立体物の人は壊してゴミ箱へ捨てなさい。」生徒全員しばらく唖然とした状態で沈黙。
「傷つかない技術」を体験した授業
おれはこういう授業や、「こういう授業を受けて大変勉強になりました」という感性を、ぜったいに認めません。なぜなら、前提がおかしいからです。
シアトルではそういうリクツが通るのかもしれないが、「作品がダメだからひどいダメ出しをされる」、あるいは「忙しいからといって作品を観てもらえない」のと、「最初から捨てさせる前提で作品をつくらせる」ことはまったく意味合いが違います。
もしも現実に「観ることもなく破り捨てる」ケースがあったとしても、それはやはり「捨てさせる前提でものをつくらせるのとは意味あいが違う。
作家の安部譲二が、デビュー前に前科者だと編集者からさげすまれ、その悪意から掲載する気もない原稿をえんえんと書かされた、という話も聞いたことがありますが、その話を聞いて「それが現実だ、受け入れなければいけない」と思う人は、そうはいないでしょう。
それと別の話になりますが、大切なのは「シミュレーションだから許されるのか」という問題。
もうちょっとやわらかい話にすれば、時代劇の剣豪ものとかによくある、木刀や竹刀の試合で負けた者(あるいは木刀や竹刀の特性を利用して勝った者)に対する、「これが真剣ならばおまえは死んでいた」というダメ出しですね。
でも、真剣じゃないから死んでないじゃん、というリアルもあり得るわけです。「真剣でないこと」を利用してルール内で勝利できるケースもあるわけで、シミュレーションというのは実は絶対ではありません。
竹刀や木刀で人が殺されるケースもあるわけですから、問題は「真剣ではない試合」を「シミュレーションと認識するかしないか」という問題になります。
そして、その「認識」は、「道場」とか「師匠」とか、「戦いの状況」などによって後付けされるにすぎません。
話が飛躍すると思うかもしれませんが、戸塚ヨットスクールの理念などともつながってくる。
なぜなら、ヨットスクールの理念は「子供を死と直面させれば『リアル』が生じる」ということであり、それがシミュレーションの枠におさまりきれない(実際に死者が出た)というところに問題があるからです。
いったい、目の前で行われているのはシミュレーションなのか「現実」なのか? は、単に教師の認識の差にすぎません。
それらを受ける方が、死んだりケガをしたりすれば、たまったもんじゃありません。
そういう「シミュレーション」が、「これは授業だから許される」という枠内で免責される、ということは私はぜったいに承服できません。
たとえば、リンク先の先生は「おまえらに嫌われてもおれは仕事はなくならないよ」と言うことを言っていますが、その物言いをつきつめていくと、
「いきなり殴りかかってくる生徒がいたら教師はどうするのか?」ということに、実は、つながっていきます。
つながっていないかのようにふるまっているのは、「まさかこういうことをやって、殴ってくるやつはいまい」という教師側の勝手な見込みにすぎません。それは、やはり欺瞞でしょうね。
もしもこの先生が、怒った生徒からいきなりブン殴られたとしましょう。当然、生徒は退学です。刑事事件になるかもしれない。
でも、この先生が授業中に暴行を受けた、ということを、まったくなかったことにして生きられるでしょうか。
たぶん、無理でしょうね。
この先生、そこまでの覚悟はないと思いますが、それは「自分が決めたシミュレーションの枠外に出るものはいないだろう」という、勝手な見込みにすぎないんですよ。
また「剣豪」に話を戻しますと、「真剣の『試合』」においては「いきなりあらぬ方向から矢が飛んでくる」ことは想定していないわけです。
このように、シミュレーションは(当然ですが)それ自体にルールをもうけないと、無限の「掟破り」を想定しなければならなくなり、シミュレーションとしての意味が無効化します。
授業で「課題にしたがってものをつくる」というのが、学校における大前提の「ルール」であり、生徒は単にそれを守っただけですから、そこに枠外のルールを上乗せしてくるこの「授業」が、生徒にとって「学校内ルールへの信頼」を失墜させないことに関して、私は、
「アメリカってのは、民度が高いんですなあ」
と、皮肉まじりに言うほかありません。
だいたい、ディベートの授業をしろだの、ブタをクラスで育てておいて、それを食うのに議論しろだの、ぜんぶ「ルール内で不快感を醸成させる」という意味において、私は意味があるとは思っていません。
農家がブタを食うのと、クラスで飼うのとは、それだけですでに前提条件が違いますから。
理系的な意味でも、「実験」になってないですね違う話ですけど。
こういう実験に対する仕掛け側のドヤ感が、しぬほど不快です。
なぜなら、どんなシミュレーションを構築してもそれは「現実そのもの」ではないし、顔を出すのは、「生活に根差したところから来る残酷さ」ではなく、「つくり出された残酷さ」だからです。
確かに現実には残酷な仕打ちが待っているかもしれない。だけれども、それは非合理ではあれそこに到達するまでの「因果」があるわけですが、シミュレーションの場合は単に冷徹な、「頭で考えた」実験場があるだけです。
こういうのは一見自由だったり、「生徒のためを思って」と見せかけて、「学校、授業の制度」の、鉄壁の閉鎖性を保証するものにすぎません。
けっきょく、くだらん校則でギチギチにするのと変わらないんですよ。そういう意味では詰め込み教育の方がマシです。
なお、こういう「ショック療法」でタマシイを持ってかれてしまう生徒もいるのでしょうが、それこそ近代的なやり方ではないですね。
欧米なんだから、近代的にやれよおい、欧米。
私は大嫌いです。
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