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【書籍】・「思想としての全共闘世代」 小阪修平(2006、ちくま新書)

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個人的には「哲学をわかりやすく解説する人」として、きたろうとともに出演した深夜番組「哲学の傲慢」が思い出される評論家の書いた、全共闘運動とその世代に関する本。

冒頭の自分語りに「ゲゲッ、このパターンか」となってしまい、しばらく放り出していたのだが、本題に入ると運動をできるだけ俯瞰しようとした、よい本であることがわかった。

本書には、現在四十代以下の「学生運動のイメージ」をくつがえす点がいくつか明記されている。
それを箇条書きにすると、以下のようになる。

・「三派全学連」と「全共闘」は違うものである。
・「最終的な政権奪取」を目的としない者も大勢いた。
・問題が起こっている現場で動くのが、全共闘の信条である。

1番目に関しては、後の過激派との違いにも同じことが言える。
連合赤軍の集団リンチ事件があまりに衝撃だったため、学生運動が比較的穏当なものから、過激なものへと一直線にエスカレートした、という史観が多すぎる気がする。実際はもう少し複雑だろう。
学生運動は足抜けする時期も個々人がまちまちなため、集団自体は存在していても実態が変化していることがある。

2番目に関しては、「左翼とは革命を起こして、最終的に政権を奪取するものである」という固定観念から飛んでいる。
ガチでソレを考えていた赤軍派みたいな人たちもいたが、「政権を打倒しようとしない」のであれば、後続世代(かつ、別に学生運動に興味のない人)がしたり顔で言う「こうすれば政権は取れた」といったもの言いは、まったく空虚だということになる。
簡単に説明するなら、音楽の「パンク」に近い行為だったのだろう。

だから、「何の展望もないのにただ暴れた」ことに関し、本当にまじめに小市民的な生活をしている人はともかく、パンクのさまざまな逸話……ステージに豚の臓物をバラまいたとか、ウンコをしたとか、客を殴ったとか、そういうものを支持する人たちは、「政治運動において、ただ暴れる」行為を批判することもできないのではないか? と思う。

ここは、実はむしろ芸能の領域で非常に重要な問題である。
なぜなら、「過激な表現」とは常にギリギリまで「もしかしたら、現実を侵食するかもしれない」と思わせているからこそ成立している。何の影響もないことが白日のもとにさらされてしまったら、それは「魔法」を失う。

デーモン小暮や大槻ケンヂは、そうした「過激であることの魔法」の、芸能というかパフォーマンスにおける限界をおそらく骨身にしみていたのだろうと思う。彼らは、「自分たちはパロディである」ということを標榜しつつ、なんとか「過激さ」を保とうとしてきたのだ。

3番目に関しては、70年代後半から80年代にさんざっぱら言われた「学生運動をやっているやつらは、学生時代暴れるだけ暴れて、しれっと就職しやがった」という批判をくつがえしてしまう。
おそらく、単なる変節として、やったことをまるきり忘れて就職した人も多いだろうが、「自分のいる場所を改革していこう」という考えを全共闘運動の思想信条だとするのは評論家の呉智英も同様である。

とにかく、学生運動を批判する人の批判はあまりにすさまじいので、私も実は最近まで「えっ、『現場でたたかう』って詭弁なんじゃ?」と思っていたが、どうやら本当にそう考えていた人たちはいるらしい。

……というわけで、私も全共闘世代のやってきたことを全面的に支持しているわけでもないのだが、あまりに誤解と曲解が蔓延しているので感想を書いた。

「学生運動に対する呪詛の念」は、実はオタク文化の裏テーマでもあり、また本書の主張に照らせば全共闘的思想の別のかたちでの体現でもある(コミケには、思想信条はおくとしても、運営の方法論として社会運動のそれが使われているらしいし)。

別の言い方をすれば、学生運動世代が「知ってて当たり前」だとしたマルクス経済学などの「教養」をすべて無効にし、それをアニメやマンガやゲームの知識に総とっかえしようとしたのが、80年代のオタク文化だとも言える。
(当然、宮崎駿や押井守のような、社会運動にシンパシーを感じるような重要な作家がオタク文化にからんでいることも事実なのだが、それはまた別の話である。)

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