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【アニメ】・「装甲騎兵ボトムズ ペールゼンファイルズ」OVA

2007~2008年
監督:高橋良輔
シリーズ構成:吉川惣司

時代設定はOVA「 レッドショルダードキュメント 野望のルーツ」とテレビ本編第1話との間だそうだ。

私は、本作はかなりの傑作だと感じる。
巨大ロボットアニメの続編とかスピンアウト作品とか、ましてや「過去の話」だと、オールドファンサービスに徹するのみで、何も新しいことが語られなかったり、つじつま合わせに終始して新しい要素が何も出てこないといったことが予想で来てしまうのだが、本作はそうではなかった。

いろいろと、以下にネタバレ全開で説明する。

・「裏切り者ばかりの集団」という設定
本作の基本プロットは、軍のウォッカムという人物が、「どんな環境でも生き抜く力を持つ人間」である「異能生存体」ではないか、と思われる五人の男たち(キリコ含む)を、さまざまな過酷さを持つ戦場に送り出すというものである。
ところが、「極端に過酷な戦場で生きぬいてきた者」は、単に「兵士として有能」であるばかりではなく、とても臆病だったり、あるいは策を弄して「仲間を裏切って生き残る」ということもあり得る、ということに本作ではなっている。

すなわち、キリコ以外の4人は全員、どこかしらスネに傷を持つあやしい存在なのだ。
そして、「生き残って来た」というだけで集められたため、出所もバラバラ、最初から統率がとれているとはいいにくい分隊となってしまった。

ここで、普通の軍隊モノなら、だんだんにお互いの誤解が解けて友情が生まれ……なんてことになるが、本作はそうはならない。
えんえんと、お互いがお互いを疑い続ける。だが、単に裏切ればいいというものでもないのが戦場で、彼らはお互いを疑いながら、協力しないと生き延びられないと感じれば協力しあうことになる。

つまり、「回を追うごとに隊の結束が固まってゆく」というお約束がないため、そういった意味でのカタルシスは得られない。
ここで評価が分かれてしまうかもしれない。

だが、本作が小説「バトル・ロワイアル」以降の新作だと考えた場合、設定としては「だれも信じられない」方が普通であると言える。
しかも、それは「セカイ系」などと言われた、いかにもツクリモノ的な人為的なゲームではなく、だれかの陰謀がからんでいるとはいえ本物の「戦場」なので、それゆえのリアリティを確保しているということは言える。
つまり、繰り返しになるが「必ずしも敵対してばかりいたら生き残れるわけがない」ことが、ごく自然に表現されている。
これは非常に現代的であると感じるし、また「ボトムズ」だなあ、と思う。

・「異能生存体」というギリギリ設定
「異能生存体」とは、私の記憶では「ボトムズ」本編終了以降に出てきた設定で、「数百億人に一人、どんな過酷な状況でも生き延びることができる」という一種のスーパーマンである。
それがなんとも曖昧で、「傷のなおりが早い」などの肉体的な超人性だけでなく、どうも物理法則や「運」もあやつれるっぽい微妙な描写がある。
それを研究していたペールゼンの言葉でも、今ひとつはっきりしない。

「少々やりすぎた後付け設定」程度のものだとは思うのだが、そもそもこれはおそらく、「『ランボー』などの映画のスーパーソルジャーは、なぜ常に都合よく生き残るのか?」という、「物語上のお約束」を設定内に組み込んでしまう、という発想から来ているのだろう。
(製作者サイドがどこまで意識しているのか知らないが)かなりメタな設定なのである。

そう、私は、結果的にだろうと後付けだろうと、「メタ設定をメインに組み込んだミリタリーSFアニメ」という特殊な存在が「ボトムズ」だと思っているのだ。
この「異能生存体」という設定は、ともすれば「主人公がぜったい死なない」ために、視聴者の緊張感をいちじるしくそぐことになってしまう。

しかし、本作ではキリコが「ペールゼンに監視され続ける男」、「どんな地獄の戦場からも、その惨劇を見ながら生き延びなければならない業を背負った男」として描かれ、ギリギリ緊張感を保っている。
キリコとペールゼンの関係は、「ランボー」におけるランボーと彼を鍛え上げた「大佐」との関係に似ている。
しかし、ランボーにとっての「大佐」が父親代わりであるのに比べ、キリコにとってのペールゼンは冷徹な観察者でしかないのだ。

また、自分たちが「異能生存体」かもしれない、と思い始めた分隊の面々の戦闘が狂い始めるくだりにもリアリティがある。
常に生死の境をさまよっている者にとって、自分が「どんなことをしても死なない人間」であることは「夢」であり、その夢が実現しそうになったとき、行動基準が変わってしまうのも当然のことだ。
いわば、「バキ」シリーズにおける、ある時期までの「格闘家と範馬勇次郎との関係」に、分隊の他のメンバーとキリコの関係は似ていると言える。
勇次郎は、ある時期まで「さまざまな格闘家の夢を凝縮した、絶対無敗の存在」であったからだ。

「不死身のスーパーソルジャー」は象徴的な存在であり、常に努力し戦い続ける戦士にとっては、それは架空の存在でしかない。
だが、そうした象徴的な超人戦士が実在したとき、自分が「それ」になれるかもしれない、という錯覚を起こす。

このあたりの、話がメタ化するギリギリのさじかげんもうまかったと、私は思っている。

・どうやって巨悪を倒すか
さて、陰謀をめぐらすウォッカムとキリコたちはそれぞれ遠く離れたところにいる。本来なら、巨悪の目的がすべて明らかになったとき、主人公はそいつを倒すのがパターンである。
そのためには、主人公が遠く離れた大ボスにどうやって出会うか、という伏線を張り巡らさなければならないが、本作では最終話の最後までそんなものはないし、キリコはウォッカムに会うこともない。

しかし、結果的にウォッカムはキリコによって破滅させられてしまう。これも非常にメタな手法だと言える。
繰り返すが、本作がいったいどの程度狙っているのかはわからないのだが、主人公が大ボス打倒に直接手を下さない(でも大ボスは倒される)というのは、やはり非常にイマドキな感じがするのだ。

いわばキリコは「主人公だから」という理由だけでウォッカムを倒したようなもので、バカ展開ギリギリな話である。
だが、そのギリギリさがたまらない魅力になっている。

本作は、おそらく後付けであろう「異能生存体」という設定の語りなおしなのだが、それが00年代的な非情な人間関係と、「主人公が主人公であるゆえに勝利してしまう」という、ヘタをすると作品全体をブチ壊しにしかねない設定をもって、「現在の物語」に仕上がっているのだった。

簡単に言えば、「ボトムズ」とは「リアルな戦闘描写」と、「昔のハードSFで突如ぶっ込まれる飛躍したSF設定」が融合している非常に不思議な作品であり、それを00年代に蘇らせたのが本作、ということはできると思う。

なお、「異能生存体」のような、基本設定をひっくり返してしまいそうなややムチャな設定としては「ガンダム」における「ニュータイプ」の存在がある。
両者がたぶんにSF的でなおかつ作品そのものの質に関わる設定が入っているのが故意か偶然かは知らないが、それが80年代以降、どう語りなおされてきたかは一考の価値があると思う。

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