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【雑記】・「なぜみんなイライラしているのか?」

大阪の「維新」とまだるっこしい民主主義(小田島隆のア・ピース・オブ・警句)
私が二十代~三十代の頃に心ときめかした「コツコツ改良主義」(この言葉は私が勝手に考えた、後で説明する)のコラムニストとしてはいまだに信用できるのが小田嶋氏だ。

 オリンパス問題、TPP、暴対法、大阪での選挙結果、自転車の車道通行問題、各種のコンプライアンス関連事案――思うに、これらのヘッドラインは、いずれも同じ課題をはらんでいる。すなわち、ここに列挙した話題は、すべて、「グレーゾーン」に対する寛容さの欠如に関連しているのだ。

 私たちは、自分たちの中にある「日本的」な、「なあなあ」の、「曖昧」で「無原則」なあれこれについて、うしろめたさに似た感覚を抱いている。そして、その一方で、グレーゾーンを取っ払う作業にうんざりしてきてもいる。別の言い方をするなら、われわれの社会は、白と黒との境界領域にある、「不明瞭さ」や「不効率」や「ルーズさ」に対して、鷹揚に構える余裕を失っており、他方、グローバリズムに取り込まれたローカルな組織に独特な、無力感に苛まれているのだ。


ちょっと長めに引用したが、この部分に関しては、コミュニティに「グレーの領域」がなくなってきているから、「グレーゾーン」の存在が維持できなくなっている、というのが私の仮説。
それは基本的には、昨今言われる「グローバリズム」とはひとまず無縁であり(長期的には関係している)、日本のコミュニティがゆるやかに崩壊してきていることの証左である、と思っている。

だから、「グレーゾーンを取っ払おう」と望んでいるのは、庶民の側でもあるはずだ。

 民主主義の政体に果断さや効率を求めるのは、そもそも無いものねだりだ。  逆に言えば、それら(スピードと効率)は、民主主義自体の死と引き換えにでないと、手に入れることができない。

 民主主義は、そもそも「豊かさ」の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まだるっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。結局のところ、われわれは、全員が少しずつ我慢するという方法でしか、公正な社会を実現することはできないのだ。

この辺は大いに同意するところだ。
そして、この「果断さか、民主主義か」というのが、99年から都知事となった石原慎太郎、そして2001年からの小泉総理旋風あたりからの、政治における一般庶民の「物語」のフレームだと、私は考えている。
石原、小泉、そして民主党が権力を掌握することができたのは、いずれも「強いリーダーシップを持つ、新しいところからやってきた人物」を望んだからである。東国原県知事の存在も、そうだったかもしれない。

その原因は何かと言えば、ぶっちゃけ不景気だろうが、一般庶民が現状日本の「民主主義」を「信頼するに値しない」と(実際にそうかどうかはともかく)思っているからだ、ということは容易に想像できる。

別の言い方をすれば、「民主主義によって強権的なリーダーを求める」ということを、繰り返していると言えるだろう。
ところが、どんなリーダーも、日本の社会システムでオールマイティな力を手に入れられるわけではないから、そこは改革に時間がかかったり、強い抵抗にあって不可能だったりする。
そこで一般庶民はいらだつ。そしてさらなる別の「強権的なリーダー」を探し回る……。

99年以降の十数年間は、この繰り返しだった気がする。
そして、どうにもならなくてみんなイライラしているのだ。

現在の四十代後半から五十代後半くらいまでの世代は、(小田嶋さんが具体的にそう思っているかは知らないが)団塊の世代を観てウンザリし、また性急な革命は非効率であるとも思い、日々、面倒でも煩雑でもコツコツと、目先のことを解決していかなければならない、と考えている人たちが多い。

そして、これもまた私の想像だが、そのような考え方は、現在の日本では聞き入れられにくくなっているのではないか。
そうした苦悩が、小田嶋氏の文章から現れているような気がしてならない。

ここから先は、完全に私の私見。
団塊の世代の性急な社会改革の失敗は、「コツコツやるべきだ」という反省をももたらした。
これを私は「コツコツ改良主義」と呼んでいる。
これは、私が勝手に規定したのだが「革命」の対義語だ。
「革命」は、すべてを一度に、劇的にひっくり返そうとする。
「コツコツ改良主義」は、劇的にならぬようにおさえ、じっくりとやっていくことを推奨する。

「コツコツ改良主義」は、七十年代中盤からバブル崩壊までは、非常に強い説得力を持っていた。
80年代、「サラリーマンが一生懸命働いても、マイホームも持てない時代」と批判されたが、それでも現状よりは努力が経済面で反映されたのだ。要するに、コツコツやることだ。

コツコツ改良主義の弱点は、「コツコツやる」ということのレギュレーションにはあまり疑問を持たなくなりがちだ、ということがある。
別の言い方をすれば「どのレベルで改良するか」という問題だ。
たとえば「非効率な職場」があったとして、そこで怠けている人を説得するのも、システムそのものを変えるのも「改良」となる。そのどちらがいいかという議論は、個別具体的になされるべきで、「社会全体」として大枠での議論がしにくいのである。

バブル崩壊以降は、年功序列もなんもかんもが段階的に崩壊していった。そうすると、コツコツやるだけではダメになっていく。
「コツコツ」だけではだめとなると、人々の考えは分裂していく。
人間がダメなのか、システムがダメなのか、それとも個人の努力が足りないのか、意見が分かれていく。
そして、最終的には安易に個人の「立ちまわり」の問題になることが多い。

人をどう出し抜くか、みたいな話になりがちなのだ。

強権的なだれかに上から改革してもらうか、
自分が他人を出し抜くか。

この二元論が、今の日本を支配していると言える。

私は東日本大震災の悲惨な体験が、この二元論を結果的に打破する思想を立ちあげてくるかもしれない、とも考えているのだが、橋下をめぐるモロモロは、やはり2000年代からの庶民の思考フレームの掌の上の出来事だ名、と思った。

話は飛躍するが、昨今、脱原発などのデモが増えて、古い「新左翼」の方法論が復活してくることに異議を唱える人も多くなってきた。
しかし、私はそれよりも、「コツコツ改良主義」の側の説得力が大幅に落ちて来ていることが問題だと考えている(注:今回リンクした文章のことではない。苦悩しているからこそ、長文になってしまっているのだろうし)。

社会評論やコラムなどをやっている人はともかく、一般ブロガーの中での「コツコツ改良主義」の人たちは、自分たちのレトリックにいかに信用性が失われているか、そういう時代なのかさえ気づいていない人が多い。
それはどこかで何とかすべきだろう、と思うのだが。

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