« 【イベント】・「11月3日の「文学フリマ」にSpファイル友の会でます!」 | トップページ | ・「夜叉神峠」 全3巻 小池一夫、政岡としや(2005、小池書院) »

【テレビお笑い】・「『内輪の悪ふざけ説』について考える」

昼の「お笑い」番組に「内輪の悪ふざけ」もう勘弁しての声出る(NEWSポストセブン 9/21)
毎度おなじみの、この話題。

「批評」として、現在最も立ち遅れているのがテレビ。
逆に言えば「テレビなら何を言ってもいい」と思われている。
ナメられているのだ。

・その1
一般的に「(芸人の)内輪の悪ふざけ」とされる番組は、おそらくお笑い業界内の力関係や交友関係をスタジオで顕在化させたたぐいの番組だろう。
まさか、本当にただ芸人が騒いでいるだけで「悪ふざけ」と言っているのではあるまいな。せめて「芸人同士の関係性」のところにまでは思いをはせてほしい。

しかし、実はテレビが「内輪の悪ふざけ」であったのはここ最近のことではない。

亡くなってしまったが、前田武彦が「夜のヒットスタジオ」で「フランクな司会」をしたのは60年代後半。
現在、ミュージックステーションのタモリ的態度(「最近どう?」的な)にそれは受け継がれている。
前武の司会は、私の幼い頃の記憶で言えば「馴れ馴れしい」ということであり、「馴れ馴れしい」というのはすなわち「内輪である」ということである。
その後、大橋巨泉、堺正章、井上純などがテレビバラエティの司会において「ぼくたちの世界ではさあ、休みのことを『オフ』って言うんだよね」的なことを言うとき、彼らは「芸能界」という内輪の話をしているのであり、視聴者はそんな関係性に憧れたのである。

現在「芸人たちの悪ふざけが面白くない」と思っている人たちは、おそらく「芸人の世界」がうらやましくもなんともない、興味もない人たちで、だが、自分の興味のある世界、たとえば野球界やサッカー界やファッションモデル界の関係性になら、興味を持つ人たちだろう。

つまり、「芸人の内輪の悪ふざけが面白くない」と思っている人たちは、「違う、自分たちの好きな内輪を用意しろ」と言っているだけ、ということになる。
そして、みんなが必死で個人主義に走った結果、「だれもが入りこめる、憧れるような『内輪』」は、とうの昔に消滅しているのである。

・その2
「内輪」とはどういうことか。それは「コンテクストが生じている」ということである。
たとえば寄席を中継するだけでは、コンテクストは生じない。それは単発で断ち切られる(「寄席」内部のコンテクストはあるが、それは伝わりづらい)。
「笑点」で、「大喜利で座布団十枚たまるとごほうびがもらえる」として、十枚たまるまで繰り返す、これは「連続もの」としての文脈があるということだ。
視聴者は、「だれそれは面白い答えも出すがでかい一発がないな」とか「だれそれは司会者を怒らせてすぐに座布団を取られてしまうな」などの興味を持つ。今でこそ、「笑点」における座布団争奪は形骸化してしまっているが、私の記憶では70年代まで、ある程度競技性を持って機能しているものだったのだ。

だが、まあ基本的に70年代のお笑い番組は、毎回の連続性はそれほどなかったと思う。
「大正テレビ寄席」にしても、「8時だよ全員集合」にしても、毎回見ていくことによって生じる面白さ、というのはなかったと記憶している。

そこに「連続性の面白さ」を導入した一人は、欽ちゃんだ、と思う。
「欽ちゃんファミリー」とは、そのコンテクストを視聴者が楽しむためのプロレス団体のようなものだ。
あえて素人っぽい人々を起用したのも、悪い意味で慣れたプロの安定感を拒否したのだろうし、「イモ欽トリオ」の歌手デビューにしても、「あのトリオが歌を出した!」という「連続性」なしには成立し得ないものだっただろう。

80年代のマンザイブームになって、「お笑い番組の連続性」の傾向はますます強くなる。
基本的には単発色が強いが、やはり「キャラクター」が生じてくる。キャラクターは世界観がなければ成立しえず、世界観とはすなわち「内輪」である。
「ひょうきん族」は、ファミリー色は希薄だったがやはりファミリーであり(スタッフがどんどん表舞台に出てくるところを見よ)、「ひょうきん予備校」はその世界観の捕捉だったわけだし。

とんねるずに至っては、井上純的な「芸能界」以上に親近感のある「業界」幻想を生み出した。
とんねるずは「こんな業界にいるおれ」というアイデンティティーで勝負していた。視聴者の知らないスタッフの名前もバンバン出して笑いをとっていた。要するに「内輪」である。

また、ダウンタウンブレイク以降の吉本芸人の東京攻勢は、「東京的な業界」に対する、文字通りの「侵攻」であったことは、それ「以前」のいとうせいこうのビデオ「業界くん物語」などを見るとものすごくハッキリわかるのである。

要は「内輪VS内輪」が、ショーというものなのだと思う。

・その3
もちろん、「内輪の文脈」がまったくこちらに響いてこないこともよくあって、それは改善しないといけない。
以前、伊集院光が自分の所属事務所の若手ライブを観に行ったら、トークコーナーで、だれも知らない無名の先輩の内輪話をえんえんとしているやつがいてよくないと思った、というようなことを言っていたが、それは確かに避けなければならない。

プロレスは私はまったくの門外漢だが、連続性のある試合が理解されなくなってきたので、1回観に行ったらそれだけで満足ができるマッチメイクや演出に移行しているところもあるという。
それも一つの方法だろう。

だが、テレビの「内輪の悪ふざけ」が、本当にそこまで研究しつくされたうえで批判されているか、というと、答えはノーであろう。
批判する人は、自分が入れないから嫉妬しているだけなのである。

なお、引用先のコラムニストが面白いと思っていることとして、こんなことを言っている。

 だからといって「笑い」は拒否、というわけではありません。その証拠に、なでしこジャパン・佐々木則監督の「私にも合うでぃ(アウディ)」といったダジャレは好感をもって受け入れられています。実際に、アウディの売り上げはぐんと伸びたそうですから。

ダジャレかよ!!
おまえなんかに笑いを語ってもらいたくない。

|

« 【イベント】・「11月3日の「文学フリマ」にSpファイル友の会でます!」 | トップページ | ・「夜叉神峠」 全3巻 小池一夫、政岡としや(2005、小池書院) »

お笑い」カテゴリの記事

テレビ」カテゴリの記事

評論とは」カテゴリの記事