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【雑記】・「実はいまだに80年代の問題から脱しきれていなかった!!」

反原発運動の効果について。
最初にお断りしておくが、リンクしたテキストはド正論である。
まったくの正論で、反原発運動に疑問を感じていたり「デモって本当にやる意味あるのかな?」と迷っている人はぜひ読むといい。

ただし。
あまりにも正論すぎると、その完全性に疑問がわいてくることも確かなのだ。

・その1
この正論そのものが、80年代後半の反原発ブーム時にも唱えられていたことは、強く主張しておきたい。論者は「デモは古い、少しは進化すべき」と言っているが、ここに書いてある「有効な方法」も、20年近く前から唱えられているのだ。

論者は「アマチュア市民」が進歩がないから、オレも同じことを言わなければならないんだ、と言いたいことだろう。私が論者だったらそう言いたい。
だが、「ニワトリが先か卵が先か」ではないが、20年前の「正論」が市民に伝わらなかったからこそ、同じことが現在、繰り返されているとも言える。では20年前の「正論を唱える行為」は無駄だったのか。言論が人を変えることが目的ならば、無駄だったと言わざるをえまい。デモと同じように、ほとんど変わらぬ主張をまた繰り返さざるを得ないのだから(根気よく主張し続ける人には敬意を払いつつ)。

実は私も3月の原発事故以降、有効性の疑問な「デモ」が復活したことに驚いたクチだが、「無駄だからやらない、有効だからやる」という二元論では、それこそ、また同じことの繰り返しになるはずだ。

もう少し前にさかのぼって考えてみればいい。
70年代半ば、ほとんどの人々が政治に関心をなくした。これをすぐ連合赤軍のせいにする人がいるが、大きな要因ではあっただろうがすべてではない。
おそらく当時、「何かやっても、どうせ政治において自分の主張なんか通らないんだ」という、その後何十年も人々を呪縛するほどの諦念が生まれたのだ。
当然、たいていの人は80年代から2000年代まで、デモに限らず政治運動は「特別な人がやるもの」と認識していたはずだ。
もちろん、思想家は黙ってそんな状況を見てきたわけではない。彼らが唱えたのは「自分にできることを、コツコツやろう」ということであった。
まあ自覚的過激分子でなければ、たいていの人が大同小異で同じことを言っていた30年だったのだ。

しかし、その正論は通ったか。これほど全国規模でデモが起こっているところを見ると、ほとんど通らなかったと言っていいだろう。なぜか。コツコツやることなんて、つまらないし高揚感がないしアドレナリンが出ないからに決まっている。
「無駄だからやるな、有効なことをやれ」と言われても、みんなやってみたいのである。

お客さん5人以下のライブを何度か見たことがあるが、広義の芸術、パフォーマンスだと、たぶん全否定はされないだろう。たとえお客がゼロだとしても。
だが、政治運動にタイトに有効性を求めると、そのような満足感すら得られない。そんなこと、頼まれたってみんなやるはずがない。

そのような政治運動における「行間」を、80年代後半以降、汲み取ろうとした人はほとんどいなかった。主張はともかく、そのあたりをある時期まで生々しく描けたのは小林よしのりくらいだったのではないか?
この「(政治運動における)有効性とやりたいことのギャップ」が埋まらないかぎり、アマ市民は永遠に似たようなことをやり続けるだろう。

・その2
文中に出てくる「逮捕慣れ」という言い方も気になる。市民が日常からかけ離れたことをすれば、警察だって勇み足をすることもあるだろう。むしろデモなどをやる際の、逮捕を含めた諸問題に対して、何も方法が継承されていないことの方が問題だ、と私は考えていた(なぜ継承されなかったか。そのあたりのことを知っているのが、「プロ市民」だったからだ)。

こんな当たり前のこと書くのもイヤなのだが、政府というのは暴力で人を制御できる権利を持っている。
ふだん、我々はそのことに気づかない、あるいはありがたいと思っているが、自分自身が制御の対象となったとき、そこに緊張関係が生まれる。それは当然だろう。そりゃ、逮捕されれば対策本部くらいはつくるだろう。

デモに限らず、非日常的なことに関しては「アマ市民」は対処できない方が普通であり、そのあたりは他の政治運動とそう変わりはない。
また、いわゆるプロ市民に関してだが、「運動のための運動」がダメだとして、「私たちのやることは本当に世の中をいい方に変えます!!」と主張されたら論者はどう答えるつもりなんだろうか?

いやいや、彼の中ですでに結論は出ている。「そんなものは絶対にない!」ということなのだろう。
リンク先の文章全体に、いわゆる「活動家」に関する嫌悪感が漂っていることは、読解力を持っている人ならなんとなくわかるはずである。

個人で太陽光発電の機械を買ったり、住民投票したり、というのも、努力の結果、ぜんぶ無駄になる場合もある。デモは無駄かもしれないが、有効だと思ってやったことだって無駄になることも多い。
本当に問題なのは、「デモが無効」なだけではなくて、有効だと思えることにも結果が出るまで大変な時間がかかるということだ。
「アマチュア市民」がそんなに気が長いはずがないし、「運動に対して気が長い市民」がいたとしたら、それは論者のリクツで言えば「プロ市民」ということになってしまう。

このジレンマが理解できないと、「正論」も、言った口が満足、ってだけになってしまう。

・その3
要するに、論者が70年代くらいまでに顕著だった、政治に対する市民の主張における「運動くささ」、「活動家くささ」を払拭したくて必死なのはわかる。
しかし、すべてが忘れ去られたはずなのに、70~80年代に何の運動経験もない一般市民が選択したのは「デモ」という、いかにも活動家チックな方法だった。
論者のそのことに対する嫌悪感と失望は想像してあまりあるが、だったらもうちょっと「そういう人たち」に伝わるように正論書けよ、と思ったということです。

それと、「デモ」については、いわゆる「パフォーマンス」とグラデーションになっている、という当然のこともつけくわえておく。
「デモ」が政治運動的にまったく無駄だったとしても、「パフォーマンス」としてのクォリティが高い、ということは、論理的にはあり得ることなのだ。
そういうデモがあるかどうかは知らないが、可能性としては、ある。

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