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【雑記】・「評論はエンタテインメントになり得るか、ほか」

評論はエンタテインメントになり得るか。
それは、なり得る。現に、なっている。

一億総評論家と言われる時代だ。
なれないわけがない。

だが、それでお金を稼ごうとすれば話は別だ。
なぜなら、ヘゲモニーを握らないといけないからだ。
イヤな言い方をすれば、サルのマウンティングである。

ちなみに、私は素人なので(素人であることに逃げるという意味ではなく、必要がないという意味で)マウンティング的行為は、しないつもりでいる。

「だれの意見でもいい」なら、あなたの意見でなくてもいいわけで、それではお金は稼げない。

マウンティングの方法は、パッと思いつくだけでもいくつかある。

自らの不良性の開示。
これは意外と効果かがある。「いちいち恐い」というのは、基本的にイヤなものだし、「相手をするのが面倒くさい」ということにも通じる。

キャリアの誇示。
これも効果がある。「私はこれこれをなしとげてきた人間です」というのは、なかなかの説得力だ。
「ドクター中松のフロッピーディスク」などもこれだろう。

業界とのつながりの誇示。
これも強い。評論ジャンルでは、「でも知らないかもしれないけど、内情はこうなんだよね」と言われてはグウの根も出ない場合がある。

ただし、上記三つの方法は、ぶっちゃけて言えば「評論そのもの」の説得力にはなり得ても、絶対条件ではない。
ともすればハッタリに堕する場合もある。

問題なのは、
「評論としての精緻さ、論理の一貫性」
ということだけを全面に押し立てていくことで、「自分の意見」を高く掲げることができるか、ということだ。

結論から言うと、エンタテインメントとしては、論理の整合性だけでは不完全なのである。
要するに「だから何?」と言われてしまうということだ。

そこには、「だからこれまではこうだった」、「だからこれからはこうなる」という、研究者の視点というかビジョンが、ぜったいに必要だ。
そうではないと、「ハア?」と思われてしまう。

とくに、大学できちんと順序立てて研究の方法を学んできた人は、プライドが高く自信の説をエンタメ化する際でも、ともすれば「整合性」そのものにこだわりがちである。

だが実際は、「エンタメ的評論」というのは学術用語を広告のコピーに使ってしまうようないいかげんさとスノビズムとに隣り合わせであり、読む方はあまりそういうことは気にしてない。

「論理が通っていることそのものが快楽なのだ」という主張はすばらしいが、それだけでは、自分は多くの人には届かないと思う。

ま、そんなこと言ってる私の発言がまずあんまり遠くまで届いていないわけだが。

と、こんなオチを付ける程度でいいんだと思うよ。

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