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2011年8月

【雑記】・「評論はエンタテインメントになり得るか、ほか」

評論はエンタテインメントになり得るか。
それは、なり得る。現に、なっている。

一億総評論家と言われる時代だ。
なれないわけがない。

だが、それでお金を稼ごうとすれば話は別だ。
なぜなら、ヘゲモニーを握らないといけないからだ。
イヤな言い方をすれば、サルのマウンティングである。

ちなみに、私は素人なので(素人であることに逃げるという意味ではなく、必要がないという意味で)マウンティング的行為は、しないつもりでいる。

「だれの意見でもいい」なら、あなたの意見でなくてもいいわけで、それではお金は稼げない。

マウンティングの方法は、パッと思いつくだけでもいくつかある。

自らの不良性の開示。
これは意外と効果かがある。「いちいち恐い」というのは、基本的にイヤなものだし、「相手をするのが面倒くさい」ということにも通じる。

キャリアの誇示。
これも効果がある。「私はこれこれをなしとげてきた人間です」というのは、なかなかの説得力だ。
「ドクター中松のフロッピーディスク」などもこれだろう。

業界とのつながりの誇示。
これも強い。評論ジャンルでは、「でも知らないかもしれないけど、内情はこうなんだよね」と言われてはグウの根も出ない場合がある。

ただし、上記三つの方法は、ぶっちゃけて言えば「評論そのもの」の説得力にはなり得ても、絶対条件ではない。
ともすればハッタリに堕する場合もある。

問題なのは、
「評論としての精緻さ、論理の一貫性」
ということだけを全面に押し立てていくことで、「自分の意見」を高く掲げることができるか、ということだ。

結論から言うと、エンタテインメントとしては、論理の整合性だけでは不完全なのである。
要するに「だから何?」と言われてしまうということだ。

そこには、「だからこれまではこうだった」、「だからこれからはこうなる」という、研究者の視点というかビジョンが、ぜったいに必要だ。
そうではないと、「ハア?」と思われてしまう。

とくに、大学できちんと順序立てて研究の方法を学んできた人は、プライドが高く自信の説をエンタメ化する際でも、ともすれば「整合性」そのものにこだわりがちである。

だが実際は、「エンタメ的評論」というのは学術用語を広告のコピーに使ってしまうようないいかげんさとスノビズムとに隣り合わせであり、読む方はあまりそういうことは気にしてない。

「論理が通っていることそのものが快楽なのだ」という主張はすばらしいが、それだけでは、自分は多くの人には届かないと思う。

ま、そんなこと言ってる私の発言がまずあんまり遠くまで届いていないわけだが。

と、こんなオチを付ける程度でいいんだと思うよ。

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「マコちゃんのリップクリーム」(6)尾玉なみえ(2011、講談社)

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ギャグマンガ。魔法のリップクリームで変身してうんたらかんたら。
完全に軌道に乗った感。もう「自分はカルト」的な自虐ネタも通用しなくなってきてますね! おもしろ!

1~5の感想

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・「たおれて尊し!」(1) 尾玉なみえ(2011、講談社)

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ギャグマンガ。すぐ気絶する若き剣術師匠と、その弟子(いたずらっ子)。
おもしろ!

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・「カッコカワイイ宣言!」(2) 地獄のミサワ(2011、集英社)

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1巻の続き。ギャグマンガ。おもしろ!

1巻の感想

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・「ヤング! ヤング! Fruits」 地獄のミサワ(2011、集英社)

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1コマギャグマンガ。おもしろ!

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【雑記】・「コミケ情報」

Hyoshi17
WAIWAIスタジオ 日曜日 東地区 "O" ブロック 13b 「ぶっとびマンガ大作戦Vol.17」頒布予定。
主に80年代以降の一般的評価の対象外となった作品の紹介・評論。執筆者は新田五郎以外にも多数。買って!!!!!!!

また、以下のものを委託販売させていただく予定です。

とらのあなでも通販を開始したライトノベル調創作同人誌「HeNoVe」(サークル女医風呂
発起人JIMMYの誘いに騙された豪華執筆陣、松山剛(電撃文庫「雨の日のアイリス」)新田五郎(と学会「トンデモマンガの世界」……小説と何も関係ありませんが)、神薫(実話怪談、文春文庫「女医裏物語」)らが短編小説を執筆。表紙イラストは夙川夏樹(同人サークル、昼寝堂)。

「スーパーヅカン」1本場TOKYO巡礼歌
片山まさゆき作品に登場するキャラクターを網羅したデータブック。既刊「スーパーズカン」の2010年秋改訂版

「と学会誌27」と学会
新田も寄稿しています。

そのほかの新田五郎の寄稿させていただいた同人誌:
「特撮が来た22」(土曜日「ガメラが来た」東 "マ" ブロック 48a)、(日曜日「開田無法地帯」東 " O " ブロック 07b)
映画版「ゲゲゲの女房」について書きました。

「PLAN9 FROM OUTER SpFILE」Spファイル友の会)8/14 東Q44a
超常現象を扱った創作小説のみを載せるという、不思議な本です。新田五郎も短編小説を書かせていただきました。

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・「仮面ライダーBlack」 全6巻 石ノ森章太郎(1988~1989、小学館)

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週刊少年サンデー連載。
人類を滅ぼし、生き残った者たちだけで地球を支配しようとする秘密結社・ゴルゴムに改造され、「仮面ライダーBlack」となった南光太郎の戦いを描く。

陰謀論ギリギリとしての石森アクション

確か、本作が最後の石ノ森章太郎の少年誌連載作品。本作が連載された当時、すでに石森(石ノ森)章太郎は、少年誌では現役とは言い難くなっていたが、それでも本作は忘れ去られるには惜しい作品である。
スプラッタ映画全盛の頃に描かれただけあって残酷描写が多く、怪奇色を強く打ち出しており「バッタの改造人間」である仮面ライダーもきわめて不気味な存在として描かれている。
「怪奇アクション」としての完成度は高い。

さて、「手塚はオカルトを小馬鹿にしていてが、石森は魅力を感じていた」というのが私の仮説。永井豪は……というと、あくまでアイディアの叩き台としてしか考えていなかったんじゃないだろうか。

とにかく、石森はユダヤ陰謀論的なものにギリギリまで近づいた。だが、見識があったので特定の実在組織を悪の黒幕などにはしなかった(と思う)。
本作「仮面ライダーBlack」では、舞台は世界各地に飛ぶ。その中には俗流オカルト・超常現象的なものも織り交ぜられる。「フィラデルフィア実験」や「アボリジニの神秘」などがそうだ。

「ゴルゴム」の怪人たちが光太郎を襲うが、「ゴルゴム」の全容は最後までわからない。特撮作品にありがちな「首領」や「大幹部」といった存在もいない。あくまでも謎の結社なのである。
このあたりの組織の不明瞭さは、私の知るかぎり石森作品では徹底している。「サイボーグ009」でも「変身忍者嵐」でも、敵の存在は常によくわからない。

子供の頃何の疑問にも思わなかったことで、大人になると気になってしょうがないことがある。たとえば石森作品で、なぜ悪の組織は主人公の居住区まで把握しているのに、彼を抹殺することができないのだろうか?
家族や友人を人質に取ってしまえば、一瞬で殺せるのではないか?

確かに断片的にそのようなエピソードが出てくるが、本作でもゴルゴムが徹底してそれをやった形跡はない(アメコミヒーローが正体を隠す理由の一つは、家族や地域を人質に取られないためだろう)。

しかし、石森作品では悪の組織が「陰謀論」的な、鵺のような不明瞭な存在であると認識すれば、納得がいく部分もないではない。
なぜなら、陰謀論的な悪の組織は、自分たちの秘密を知る人々を泳がせたり、実力行使と裏腹な姑息な手段を使ったりすることがあるからだ。

もっと言ってしまうと、「妄想の産物」と考えるとわかりやすい。だからこそ、悪の組織のやることは常に合理的なようでいて非合理的なのである。

なぜ石森がこのようなスタンスでいたのかの答えは、「サイボーグ009」ですでに明らかになっている。「人間の悪の部分」こそが、悪の組織の永遠性を保証するものだからだ。本当の敵は、石森ワールドにおいては人間自身の心の中にあるのである。

だからこそ、アメコミヒーローと違い「ヒーロー(政治家や軍隊、警察などと立場的には近い)と市民」というような関係性も、石森ワールドではきわめて曖昧なのだ。

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・「ブラックジャック創作秘話」 原作:宮崎克、作画:吉本浩二(2011、秋田書店)

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週刊少年チャンピオン掲載。
「ブラックジャック」連載当時の、手塚治虫の壮絶なまでに多忙な執筆活動について、当時の関係者を取材して描いていく。

連載中にもその評判は聞いていたが、正直、あまり期待はしていなかった。
感動的シーンだけを集めたお手盛り的な企画になるんじゃないかと思っていたからだ。そもそも、「手塚治虫の話」を、いったいどんなマンガ家が描くのだろう? 手塚っぽい絵だとなんだかにせものっぽいし、かといってまったく違う絵柄でも違和感が出るだろうし……。

と思ったら、マンガとして非常に高クォリティなので感心した。
絵柄は泥臭く、手塚治虫とはおよそ関係ないタイプで逆に引きつけられるし、原作によるエピソードのチョイスやその展開の仕方も非常にうまい。
要するに、本作は「ブラックジャックがどうこう」という以前に、一度「終わった」とさえ言われたマンガ家が中年になってからどのように盛り返していくか、という話なのだ。

しかも、手塚治虫自身が天才で変わり者の、「マンガのような」キャラクターだ。どんなに多忙でもニコニコしながらメチャクチャなことを言い出す。それが他人事としてはものすごく面白い(関わった人は寿命が縮んだだろうが)。

余談めいて入ってくる永井豪のエピソードも、面白い。永井豪ファンも必読だろう。

少年チャンピオン連載だから「ブラックジャック」の時期を中心に描かれているが、その前後の時期のエピソードもぜひともこのコンビのマンガで読みたいところだ。

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・「スカルマン」全7巻 石ノ森章太郎、島本和彦(1998~2001、メディアファクトリー)

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石森章太郎版「スカルマン」は、1970年、週刊少年マガジンに掲載された100ページの中編作品である。
復讐のためには何の罪もない人々も殺すことを辞さない仮面の男・スカルマンがたどりつく運命を描いた作品で、「仮面ライダー」の原型となったことでも有名である。

ところが、実際読んでみるとスカルマンはガチのテロリストで、とても子供向けのヒーローには向いていない。
石森氏が、ストーリーまで含めて「スカルマン」を特撮番組の企画にあげたかどうかはわからないが、常識的に考えてデザインのみのことだったのではないか。

さて、そんな石森版「スカルマン」だが、1970年という時代がどういう時代だったかを思い起こさせる問題作である。ちなみに「あさま山荘事件」より前の話で、それ以降、このような話はちょっと描けなかったのではないかと思う。

したがって、それの続編となるとますますむずかしい。単行本あとがきでは、作者の島本氏が石森氏と打ち合わせをして、たとえば「ラストどうやって脱出して主人公が生きているのか」などのくわしいアイディアをもらっていたという。

ウィキペディアを観ると、その後の石森氏の死や、掲載誌の変更によってそうとう迷走をしいられたようで、その辺は読んでいてもなんとなく察せられる部分はある。

だが、続編としての「島本版」が、コマ割りや構図まで「石森流」を忠実に再現しつつ、それでいてきちんと「島本和彦の作品」になっているのには舌を巻く。
逆に言えば、石森氏存命中は「マンガとして当然の表現」だったことは、ほとんどが使われなくなってしまい、「石森氏独自の文法」としての側面がより強調されたということだが、それにしても島本先生の再現力はものすごい。

本作でもっともむずかしいのは、「スカルマン」がかつてテロリストであり、確実に罪を背負った存在だということである。これはヒーローものの常道としては作品内でどのようなみそぎをしてもぬぐえない「罪」だ。
スカルマンを「改心した善人」として描くにしろ、悪のダークヒーローとして描くにしろ、この辺はきっちりしなければいけない部分だったが、最後まで中途半端だったことは否めない。

反面、設定上の面白さには特筆すべきものがある。まず、登場する怪人はサイボーグであるにも関わらず、「スカルマン」は超人ではあるが生身の人間であること。
次に「共感能力」を極度に発達させた人間ということで、外面的なパワー(サイボーグの力)と内面的なパワー(共感能力。テレパシーみたいなもの?)を両方描いていたところが興味深い。

ラストシーンには賛否両輪あるようだが、本作では「正義」を「新人類にたてつくこと」とはっきり規定したことにはそれなりの意味があるのではないか。あるいは、さまざまな変身ヒーローが「スカルマン」という「原罪」を背負っているとする解釈には、深いものがある。

いずれにしろ、評価が低すぎる作品である。

なお、文庫版では石森版も収録されているようなので(未確認)、そっちを読んだ方がより楽しめるはずだ。

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【拡散希望】・「twitter、フォローして!!」

コミケやイベントの準備真っ最中の私ではありますが、宣伝の方法に苦慮しております。
ミクシィは効果的だったのですが現在、告知に関しては効果は激減していると考えています。

こうなったら、もはやtiwitterしかありません……。
フェイスブック、よくわからないんで……。


フォローしてくでよ~

というわけで、私の行動に興味のある方はぜひ、goronittaをフォローしてください。
随時、イベント関連や他に関係のないこともつぶやいていっています。

よろしくお願いします!

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【雑記】・「本を売る、もしくは処分するという苦痛」

昨日、ブックオフに行って自分としてはかなり大量の本を売って来た。

なかなか共感が得られないのだが、本を売る行為は苦痛だ。捨てるよりも苦痛。
一冊の本に対する評価は、購入して読んだ段階で私の中で複雑化される。

単に「面白い、つまらない」ではない関係が、そこに生まれる。

その「複雑な関係」が、本を売ることによって再びリセットされ、市場に解放される。
なんだかとっても苦痛だ。

ある人のポリシーで、「評価の定着した名作は処分してよい。むしろ時代性をもろにかぶった、そのときにしか輝かないものをこそ残しておくべき」というのがあった。

確かに、たとえば「夏目漱石全集」が販売されなくなる、ということは、日本という国が存続するかぎり、ないだろう。よほどの夏目ファンでもないかぎり、捨ててしまってもいい気がする。

問題は、そこまで評価が定着していないものの場合、あるいは今後アクシデントが見込まれるものの場合だ。
たとえば、むかし「藤子不二雄ランド」というのがあった。
手塚治虫の「手塚治虫全集」に匹敵する企画で、かなりの藤子不二雄作品がこのシリーズからリリースされた。

しかし、この「藤子不二雄ランド」、セル画がついて、確かページ数も薄かったと思う。また、他のレーベルでも読める作品も多く、さらに週刊ペースで刊行されるのが売り、ということもあってとてもじゃないが刊行についていけなかった。
つまり、私はほとんど「藤子不二雄ランド」を買わなかったのである。

まさか、藤子不二雄作品が入手しづらくなるなんて、考えもしなかったのだ。

ところが、その後「オバケのQ太郎」などは諸般の事情でしばらく入手困難になってしまった。

こういうことを考えると、本を手放すのが恐くなるし、手放した後もずっとそのことについて考えていたりする私なのであった。


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