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【雑記】・「マウンティングについて」

暴言と知性について(内田樹の研究室)
「マウンティング」的行為について、こんなことが書かれている。


それ自体はいいも悪いもない。
ひとつの政治技術である。
それが有効であり、かつ合理的である局面もあり、そうでない場合もある。
今回彼が辞職することになったのは、政府と自治体の相互的な信頼関係を構築するための場で、彼が「マウンティング」にその有限な資源を優先的に割いたという政治判断の誤りによる。

気になるのは、これが松本大臣の個人的な資質の問題にとどまらず、集団としてのパフォーマンスを向上させなければらない危機的局面で、「誰がボスか」を思い知らせるために、人々の社会的能力を減殺させることを優先させる人々が簇生しているという現実があることである。
「ボスが手下に命令する」上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず「競争相手の能力を低下させる」ことを優先させる。

この一文、絶賛の声が多いし、私も大半は同意するが、重要なことを書いてないと思われるのでそれについて書いておく。

このテキストは、「集団としてのパフォーマンスを向上させなければならない危機的局面」においては、「マウンティング的行為」は有効ではない、としている。
だが、

「ボスが手下に命令する」上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず「競争相手の能力を低下させる」ことを優先させる。

とも書いている。そこが疑問だ。
まず、本当に上意下達の組織では、「競争相手の能力を低下させる」行為が優先されるのだろうか?
要するに「部下同士の足の引っ張り合い」が有効な局面なんて、そんなにないんじゃないか?
この段階で、このテキストを書いている人は、「それ自体はいいも悪いもない。」と言いつつ、やっぱり「いい」とは思っていないのでは?

それと、こういうこと書くのイヤだし、テキスト書いてる人も勘づいてはいるんだろうけど、マウンティングが有効なコミュニティ、ってのもあるんだよな。

それは、「ボスにとって部下の変わりはいくらでもいるが、部下にとってボスの変わりはいない」という場合である。
要するに、部下にとっては「逃げ場がない」場合のことだ。
このような状況下では、ボスが黒いカラスを白と言ったら部下も白と言わなければならない状態となる。

部下は逃げ場がないので耐えるよりない。耐えられなければ、やめるしかない。
ボスは、変わりはいくらでもいるので、自分が何をやってもそれに耐えてくれる人材を探せばいいだけである。
つまり「ボスの理不尽に耐える部下」がいくらでも供給できれば、集団のパフォーマンスも低下しないし、そういうことを繰り返していけば、構成員にエリート意識が生まれ、逆にパフォーマンスが向上することすら考えられる。

大学で、教師が学生を怒鳴りつけたりしないのは、「マウンティング的行為」がまずいとか何とか言うよりも、「そういう構造」になっているから、というだけのことにすぎない。

また、「マウンティングがもっと有効なコミュニティ」がある。
それは「集団のパフォーマンス自体が優先されないコミュニティ」である。
たとえばママ友のグループとか、不良少年の集団とか、大学のサークルとかだ。

実は人は、この「パフォーマンス向上を優先しない集団」に、思いのほか依拠している。
危機的状況……災害だとかのときにも、案外そういう集団が助けになったりするからあなどれない。

「上意下達の競争集団」においては、「能力がないから」という理由での淘汰はなされるかもしれないが、「パフォーマンスが優先されない集団」では、それもあり得ない。
となると、コミュニティの秩序を維持するには、マウンティング的行為は案外有効、ということになってしまうのだ。

話は飛躍するが、だれだって仕事のときには合理的なシステムで働きたいものだ。
だからこそ、「暴言と知性について」というエントリは多くの人から支持されているのだろう。

だが実際は、そうもいかないのが現実である。

このエントリは、私から見ると「キレイすぎる」。
松本龍の態度を批判するなら、別のアプローチがあるはずだ。
でないと、松本龍的な人物は、「マウンティング」が有効とまではいかずとも、少なくともマイナスではない局面においてはああいう態度を取り続けるだろう。

私はそれが、想像するだけでものすごく不快なのである。

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