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【雑記】・「テレビは芸人の救済場所か、完結編」

このエントリの続き。

「寄席芸人以外の芸人のゴールはテレビタレントらしい」ということは書いた。
それに対して、「知ったこっちゃない」という人も多いだろう。

テレビタレントの完成系はいくつかパターンがあるが、さんま、紳助とスザンヌ的なタレントに大別されると思う。
大雑把に言って「指揮する側とされる側」である。

テレビバラエティは70年代以降、「楽屋うちをバラしているかのように見せる」という方法論をエスカレートさせながらやってきた。
耳学問だが、堅苦しい司会を脱し、「○○くん、最近どうなの?」と馴れ馴れしくゲストに話しかける司会を最初に行ったのは、前田武彦らしい。さらにその元ネタが海外にあるかどうかは知らないが、とにかく日本ではそれが70年代のこと。
それ以降、司会者の多くは「特定のコミュニティのリーダーシップを取る存在」でなければならなくなった。

80年代にはソレは「ギョーカイ」と呼ばれた。これも勝手な想像だが、「ギョーカイ」は東京に一極集中した価値観の揶揄的表現だろう。

それが、90年代に入ってからじょじょに「よしもと的」な価値観がいりまじり……よしもと芸人は全国区の中心は依然として東京にある、と主張しているとは言え……「ギョーカイ」という言葉は使われなくなった。
(そもそも、ギャグがウケなかったことを「すべる」と言うのは関西の言葉なんじゃないの? 違うのかな。「嫁」は間違いなく西の言葉だと思う。それ以前は自分の奥さんのことは「かみさん」とか「つれあい」と言うことが多かった。)

何が言いたいかというと、70~80年代的な一極集中感は多少なくなりつつある。

で、早くから司会として活躍していた桂三枝や「怪物」さんまは別として、関西芸人が大量に東京進出していく過程において、それを指揮するのが紳助になっていったことは、必然だったのである。

だが、紳助的な立場は、テレビ界で人数的にはそれほどいらない。10人以下でいいのではないか。

一方、指揮される側の「スザンヌ的存在」の方だが、こちらは人数は多い方がいいだろうし、テレビ用に鍛え上げられたサイボーグのような存在である。
だが、スザンヌはおそらく決して現在の立場を望んで芸能界を志したわけではなく、結果的に適性があったということだろう。

こうした「テレビタレント適性」を、先鋭化したのが「テレビの芸人」という存在だと私は考えている。
先のエントリで、「芸人の目指すものとゴールにはねじれがある」と言ったが、それでもなお、芸人はおそらく、テレビに出演する「人前に出る人たち」……歌手、俳優、大学教授、お料理教室の先生などと比べても突出してさまざまな状況での場数を踏んでいる。

テレビは、本来的に「テレビという場」でゼロから新人タレントを育てるというシステムを持っていない。
アナウンサー以外のすべての人たちが、「どこか別の場所」で育ってきたのであり、その中でもっともテレビ適性が高いのが「芸人」であることは、不思議でもなんでもない。

別の角度から見れば、テレビバラエティが「楽屋をバラすそぶり」で成り立っているとすれば、それに対していちばん強いのも、また芸人である(後はその真逆で、魅力的な素人を連れてくるしかない)。

「芸人がバカ騒ぎする番組は最悪」という声は常に聞かれるが、そういう人のほとんどは、「テレビ的ではないが、ためになることを言う人」をテレビで注目して観たりはしないだろう。
彼らをテレビの中で不自然ではないかたちにするのが、テレビタレントという職業であり、それに最も適性が高いのは、芸人なのだから。

なお、芸人が徹底した「芸人」としての方法論で動いているのに対し、「それに従わない」というかたちで存在感を発揮するのが、いわゆる「おねぇ」と言われているタレントであることは、言うまでもない。

もちろん、「おねぇ」のテレビタレントとしての方法論が視聴者にバレたとき、その神通力もまた失われてしまうのだが、当分の間そういうことはなさそうだ。

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