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【映画】・「マイ・バック・ページ」

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監督;山下敦弘、脚本:向井康介

70年代初頭。大手新聞社に勤める沢田(妻夫木聡)は、学生運動をする学生たちにシンパシーを感じつつも、決して当事者になれない自分に負い目を感じていた。
ある日、自称活動家の梅山(松山ケンイチ)からのコンタクトで、今後起こすというテロに関して取材をするが、先輩記者は梅山を「ニセ者」だと言いきる。にも関わらず、沢田は梅山に惹かれていく……。

とても丹念につくられたいい映画で、私は感動した。だが、時代背景が最低限わからないと、なぜ沢田が梅山を信じてしまったのか、観客は理解できないだろう。

・その1
いちおう半可通ながら、舞台背景の解説をしておく。あくまでも私は半可通なので、気になった人は各自調べるように。なにしろ、大元となっている「朝霞自衛隊員刺殺事件」のことさえ、すっかり忘れていた私だから。

まずこの映画は「あさま山荘事件」、「連合赤軍リンチ事件」以前の話だということを把握しておく必要がある。
「あさま山荘事件」は、一般庶民をまきぞえにしたことで、「リンチ事件」はその凄惨さと内ゲバの不毛さを人々にしらしめたことで、学生運動は決定的に人心から乖離してしまう(それより以前の事件を基点とする説もあるが)。

それまでは「暴力革命路線」も「ありっちゃあり」という考えが、どうもあったらしい。
梅山の指導で自衛官が殺害されたというニュースが入ったとき、浅田が前園勇(京大全共闘議長)に対し、「武器を奪取できなかったにしろ、何かをやることはやった」的なことを言うのは、浅田本人が暴力革命を積極的ではないにしろ肯定していることを表している。

別の言い方をすれば、全共闘運動から「人まで殺しちゃマズイ」と思っていた人たちはその段階で運動をやめ、その先へ行こうとした人たちは少数で過激化した、ということなのだろうと思う。

この背景がわからないと、沢田が梅山をあそこまでかばう理由は、観客にはわからないと思う。

なお、他のネットの評にもあったが、梅山やその仲間たちサイドの物語は、まるごといらない。梅山という男自体が、詐欺師なのか、ええかっこしいなのか、何か展望があってそれが失敗したので変節したのか、この映画を観ただけではまったくわからないので、「周囲に信じている人間がいるから沢田も信じたのだろう」という「状況証拠」をつくりたかったのかもしれない。
だが、やはりそれは状況証拠に過ぎない。
沢田が梅山を支持する理由が謎であるように、過激派グループのメンバーが梅山を支持する理由も、やはりわからないのである。

・その2
もうひとつ、多少浅田の心境にせまれるルートがある。
本作では、浅田はだれにでも感情移入してしまう(ウサギにさえ!)、おそろしく心の優しい男として描かれている。そんな彼は、運動している学生たちにシンパシーを感じつつ、直接は関われない罪悪感を抱いている。
そもそも、70年代の学生運動そのものが、労働者や被差別者に直接は関われない、なり代わることができないという負い目を持っていたから、彼らにシンパシーを感じた沢田がさらに負い目を感じたことは自然である。

そして「当事者に近づきたい」と思うあまり、梅山にのめり込んでしまうのも、また自然ではあるのだった。ただし、全共闘運動が被抑圧者に対する負い目か、そこからの断念を基盤としていることがわからないと、そこもまたわかりにくくなってしまうだろう。

ラストの泣かせのテクニックは、あざといとは思うがやはり泣けてしまった。監督、うまいと思う。
ただし、70年代後半でも、東京で自分の妻のことを「嫁」という夫はきわめて少なかったという揚げ足取りはしておきたい。そういう細かいところがどうしても気になってしまうので。

・その3 余談
以下は思いきり余談である。

「暴力革命路線肯定」という雰囲気は、リクツを本で読んでも今ひとつわかりにくい。ただ、つきつめていくと必ず「それを志向するのか、しないのか」という岐路に立たされることは確かだ。
「一気に物事を逆転させることを考えるより、日常の中でコツコツと物事を変えていこうよ」という路線が、エンタメの中でも70年代中盤からどんどん強調されることになったのには「暴力革命回避」の思想が根底にあるはずである。

80年代以降のサブカルチャーは、「暴力路線」をさまざまなジャンルに分解、解体して現在に至る、ということもできる。すなわち、ミリタリー、やくざ、架空戦記、格闘技、スプラッタムービー、実在の連続殺人記録、SFアクションなどなどに、である。
リアリズムとしての「国家間の戦闘」はオタク的に追求する者が出てきても、「共産主義者の武装闘争」にスポットが当たることなどはほとんどなくなったのは、70年代中盤までの、暴力革命路線否定の考えがあるからだ、と個人的には思う。

あるいはまた、70年代後半以降のエンタメ作品における悪の組織が、「少数のエリートによる理想社会をつくるために凡人どもを殺害する」ことを目標としているのも、「悪側」が、「暴力革命路線を肯定している」という展開だと言える。

暴力の問題は、非常にやっかいだ。何しろ、あれほど否定されたのにオウムは90年代、まさしく暴力革命路線として登場したからだ。

現代、我々は暴力を使うと破滅し、使わないと「畳の線を踏んで歩いてはいけない」とか「平服でお越しください、というがどのレベルの平服でいいのか?」などの、どうでもいいルールにがんじがらめになってしまうという閉塞状況に生きている。
この映画はそこまで考えてはいないと思うが、考えずにはいられないのであった。

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