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【雑記】・「まあ、そういうしかないんだろうけど」

ネットウロウロしていたら、「27時間テレビで行われた3on3で、岡村がバスケットボールをぶつけられてマジギレした」というようなことが書いてあった。

で、検索してみるとそのときの動画もあったし批判に対する岡村のANNでの弁明も聞くことができた。

すべてを総合して、岡村の言い訳は、そういうしかないにしろそれはないとは思う。

これは、常にバラエティ擁護の立場の自分でもそう思った。
(あ、バスケットボール選手のブログを荒らしたりするのは論外としてね。)

岡村曰く、「コントをやろうとしたが生放送で時間がなかったため、フリが浅かった。ボールをぶつけることばかりにディレクターが執心し、結果的にああなってしまった。しかし、テレビの視聴者は頭がよくなっていると思っていた。あれをイジメととらえられては困る」と。

私自身はこういうことがやり玉にあげられると、テレビの規制がどんどん進むのでフォローしてあげたい。
しかし、くだんのシークエンスが「まったく笑えないもの」になってしまったことは間違いない。
イジメかどうかはともかく、コントとしての出来が悪かったことは確かだ。

で、私が「それはないな」と思ったのは、岡村がラジオで「視聴者は頭がよくなってきていると思っていた(コントと本気のイジメの区別もつかないのか)」と言ったことと、それに対して矢部が「ぜんぶを本当のことととらえられると困る」とかぶせてきたこと。

「めちゃイケ」がやってきた最大のオリジナリティは何か、と言ったら、それは「虚実皮膜の上でコントをする」ということだった。
たとえば、ダウンタウン松本がやってきたことが多分に「お芝居的」であり、「ごっつええ感じ」は「コント部分」と「ゲームの部分」が明確に分かれていた。
逆に、「電波少年」系統のバラエティは、猿岩石を筆頭に「本当であること(かもしれないこと)」に、針を振った(「元気が出るテレビ」は、まだあからさまにウソくさいこともやっていたのだが)。

「めちゃイケ」は、その中間を走って来た。私は不熱心なめちゃイケ視聴者なので、年々の変遷などはよくわからないのだけれど、モーニング娘。がからんだときはよく見ていた。

その頃の「めちゃイケ」は二重構造になっていて、ガチだと思っている人も、すべてが台本があると思っている人も楽しめるようになっていた。
これは「テレビ」という生モノ的なメディアの性質と「笑い」を組み合わせる際の、すごい才能だと思ったものだ。

別の言い方をすれば、「本当のツッコミがいない」ということである。
いや、お芝居の中ではツッコミはいるが、それを俯瞰した「これってお芝居じゃねえか!!」という存在がいないのである。
(松本のコントでもときどきそういうものがあるが、彼の方が「変」の打ち出しが極端だから、わかりやすいと言える。)

逆に言えば「めちゃイケ」の価値は、「どこまでガチかわからない」ところにある。
それを「すべてガチだととらえられては困る」と言ってしまうのは、いくらホームタウンである自分たちが主役のラジオとは言え、言ってしまっていいのか、と思う。

たとえば「バカ女(じょ)」という、モーニング娘。に学力テストを受けさせる企画があった。
あれがどの程度ガチなのかは、視聴者はわからない。細かいことを言えば、ディレクターが「本気で問題を解いてくれ」と説明したとしても、試験を受ける側が目立ちたい、という理由でウソの面白い答えを書いてしまうかもしれない。
しかし、果たしてそれは番組そのものが仕掛けたと言えるのか、とか、考え出すとキリがなくなってしまう。

だが、まぎれもなく「バカ女(じょ)」は、「完全に仕込まれたコント」だと思って観てしまうと、まったく面白くないタイプの企画である。
こういうことにまで、「本気で取られても困る」と言ってしまうつもりだろうか?

もともと、「めちゃイケ」の手法は、「何も考えていない人でも楽しめる」ようにあみだされたものだと、自分は解釈している。
だから、テレビで行われていることを何でも本気に思ってしまうような人たちが不愉快だと思ったら、それはまぎれもなく失敗なのである。

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