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【雑記】・「ヒーロー/自分は間違った方向に行っているのだろうか?」

映画「キック・アス」関連で、あのバットマンみたいなやつとその娘は、ギャングと変わらない殺人鬼であることがコミック版ではより強調されてる、みたいなテキストを読んだんだけど、正直、「マスクヒーローキチガイ説」はもういいや、って思う。

わざわざそういうことを指摘して、それが支持される、ってことは「マスクヒーローはキチガイだ」っていう指摘が心にストンと落ちる人が多いということだろう。
自分は、そのこと自体が、現代という時代を表していると思いますよ。

アメコミ映画を観ていると、ヒーローはアメリカ人にとっては伝統だけど、日本人にとってはそうではないんだな、ということを痛感するんですよ。

「ヒーローのやっていることは悪人とそう変わらない、よけいなことである」という主張はアメコミ映画ではほぼ定番と化した考えなんだけど、それをアメリカ人が受け取るのと日本人が受け取るのとでは違うんじゃないか。
アメリカ人なら「そういうところもあるけど、でもヒーローっておれらの血肉だから……」ってのがあるかもしれない。

日本人は、受け入れる基盤自体が希薄だから、そういう指摘で「エウレカ!!」ってなる人の気持ちがわからない。

あえて解釈するならば、イデオロギー闘争を否定しているとしか思えない。否定というか、無用だと思っているんだろうね。

確かに、「イデオロギー」って言葉は最近は良い意味では使われない。
でも、どんな主張にだって背後にイデオロギーがある。それはみんなそれぞれ違っていて、それがぶつかり合う。ときには戦争にもなる。

それは当然のことのはずだけど、どうも日本人で「そうか、マスクヒーローってただのキチガイなんですね!! はっはっは」ってなる人は、「イデオロギーを捨てれば、何かプラグマティックな、戦略的、戦術的な『解』が明確に出て、その『解』を出すために世の中が動けば、万事うまくいくんじゃないか」って思ってるんじゃないかと思うんだけど。

自分にはどうもそうは思えないんだよね。
確かに、「キック・アス」におけるビッグ・ダディとヒット・ガールは、彼らが憎んでいるギャングと同等の存在かもしれない。あの作品世界で行われたのは、単なる殺人者同士の殺し合いかもしれない。

だけど、そういう局面でも「ギリギリでどっちにつくか?」という選択が当事者ではない我々には残されているはずだ。
どうしようもない殺し屋と、それよりはちょっとだけマシな殺し屋がいたとき、どちらを選ぶか? という選択の義務と権利が、我々に生じる場合は現実世界にもある。

その「今、やらなければならない選択」に関しては、どんなに状況を俯瞰しても、イデオロギーを相対化しても、選べるものは一つだ。
そこまで思考が至らないと、単なるニヒリズムか、言っても言わなくてもどうでもいい(今、普通に進行している)日常の追認にしかならないのではないか?

それとも、おれが間違ってんのか?

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