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【雑記】・「定点雑記20110603 同じ言動の繰り返し」

・その1
いつぞやの週刊プレイボーイに、乳首が一個も出てこない、というw話題がtwitterであった。
週プレが自主規制しているわけではなく、たまたまだったらしいが、その会話の流れの中で、
「乳首は出さなくてもエロはできる」という意見が出て、それに対して「言葉狩りのようなことになったら困ると懸念する」という返しがあった。

こういう会話は都条例問題のときも「ズレ」として繰り返された。
要するに「オタクは想像力豊かで、どんなものにもエロスを感じる」ということと「想像力ですべてをまかなえるなら、別に規制してもいいんじゃ?」という議論である。
実際、「人間は想像力で何でもできる」という言葉は、むしろ規制強化を推進する方向につながってしまうという矛盾がある。
それを突破するのは、「想像力によって、何を表現するか、できるのか」という問題になるだろう。

あるいは、「抑圧はどの程度が適正が」という問題だとも言える。
表現に対する規制や弾圧が、ガラパゴス的な進化を結果的にうながす、というのもよくある話だし、「もともと表現というのは抑圧的な状況の中から生まれる」という言い方もある。

だが、ではその「抑圧」のかけ方は、どの程度がいいのか? という議論は、実はほとんどなされていないと言っていいと思う。

同じことは学校教育の問題にまんま言える。「ガキは社会的な意味での人間ではないので、それを社会的人間にするのが学校。だからある程度、抑圧的でも仕方がない」という正論がまずあったとして、ではその「抑圧」とはどの程度のものか? という議論は、やはりなされないのだ。
たいてい、被抑圧的に育ってそれを自分にとって良かったと思っている人が上記の「正論」にやや露悪的に発言するケースがほとんどで、ディティールに関しては何も語られない。
それが、自分にはイライラする。つまらない。退屈である。
「アフリカでは餓死する人がいるんだから食い物に対して美味いの不味いの言うな」
というのに近い、乱暴な議論である、と言っておく。

・その2
twitterの、多くの意見は多くが「システム改善論」と「自虐ネタギャグ」だ。
「システム改善論」とはどういうことかというと、「システムを改善することが第一義であり、それさえ済めば人は幸せになれる」という考え方だ。
若い人に、こういう考え方の人が多いのには納得もするが驚きもする。

確か前にも書いたが、こうした発言の多さの背景には、過去にシステム以外の改善方法をさんざん聞かされ、それらがいかに役に立たなかったのか、を思い知らされるという体験があったのだろう。
だが、現状のシステム内で、システム改善を訴えて、うまい具合に改善されることがあるのだろうか?
会社勤めをしている人はわかると思うが、むしろレア・ケースなのではないか。

私が懸念するのは、以下のことである。

・既存のルール、コード内でしかものを考えないというクセがついてしまう、あるいはルール・コード内でしか思考・行動を起こしてはいけない、という同調圧力

・「暴力」の問題を無視してしまうこと

最初のは、そのとおりの話である。はっきり言うが、この方法は、「正しい」だけにぜったい少なからぬ人々にノイローゼを引き起こす。正しいから、反論できないため、責めるのは自分しかいなくなってしまうのだ。
実はtwitter上に自虐ネタや、それの反動としての特定クラスタ(サブカル女子など)を徹底的に嘲笑するネタツイートが蔓延する理由は、ここにあるのではないかと私は勘繰っている。

後者に関しては、説明が必要だ。私も暴力は好まない。殴られたら痛いし、その恐怖は大変なものだ。
だが、「システム」について考えるとき、「暴力」についても考えないと、人はやはりノイローゼに追い込まれるし、何より真実に近づけない。

ある人が、「デモは暴力の一種である」と言ったが、そのとおりだろう。なぜなら、どんなデモをしてもそれは必ず批判されるからだ。粛々とやったって「元気がない」などと言われるわけで、それはボクシングにおいて守りに回りすぎると減点対象となるのに似ている。
逆に、暴れ回っても批判されるのもまた、当然である。それは暴力だから。

私も、暴力抜きにどう物事を考えたらいいか、と思うのだが、こと社会システムに関してだけは、数式の答えを解くときのように、「暴力」という変数を代入しないと正確な答えは出ないと考えざるを得ないのだ。

なぜなら、「暴力をふるわない」というルールに従って生きている者は、「暴力をふるってもいい」というルールに従って生きている者に対し、秩序だった世界なら最終的には勝利をおさめるだろうが、局地的には蹂躙されまくってしまうという最大の難点があるのだ。

そしてまた、「警察に守ってもらう」というのも、けっきょくは暴力を警察に肩代わりしてもらっているのだと考えるべきだろう。

別の考え方もある。秩序そのものが、暴力によって破壊されてしまう場合も、ままあるということだ。ここで言う暴力というのは実際に拳をふるうことではない。「暴力をふるうなど考えもしない」人間集団の中に、「こいつは暴力をふるうかもしれない」という人間が入ってくるだけで、秩序は乱れてしまうものなのだ。
(このあたりは映画「カッコーの巣の上で」などを観るとわかりやすい。)

暴力に「原点回帰」的な意味合いを持たせたのが「バイオレンス・ジャック」や「北斗の拳」といった作品群だし、「暴力を使うというルールにしたがった物語」が任侠Vシネやヤンキーマンガだということになるが、真に破壊的なのは「秩序の中に暴力が入り込んでくること」だろう。
そして、それはたとえばJホラーの象徴的表現として「秩序が破壊される不穏さ」として表現される場合もあるが、その逆がきわめて少ない。
つまり、「閉塞感を打ち破るための暴力」が、昨今のエンタメにはない。
ない、ということは人々がそこにリアリティを感じられない、ということである。

それは問題だ、と私は考えている。

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