【雑記】・「定点雑記20110519」
twitterやふぁぼったーを観て、流れてくるツイート、多くふぁぼられてくるツイートを観て痛感するのは、「人間は機械の一種であり、その個々の機械を構成する社会システム全般がうまくいってこそ、人間は幸せになれる。他のことでは幸せにはなれない」という趣旨のツイートがひんぱんに流れてきて、多く支持されている、ということだ。
これは、「偽善」を嫌う風潮と同じ根っこを持つことだろう。
何度も同じことを書いているが、何をやっても「偽善」という人は一種の「善」フォビアとでもいうべきものだ。「人間は利己的にしか行動しない」と規定して、利他的行為を最初から否定しているとも言える。
「なぜそうなったのか?」いつもいつも自分は考えている。
もちろん、偽善を嫌い偽悪的な行為が支持を集める、ということは昔からあった。ロックやブラックギャグがそうした領域であって、サブカルチャーにおいてはむしろそちらの方が王道だとすら言える。
だが、現在の風潮は少し違う気がする。若者がちょっと異常なまでに「善意」とか「初期衝動」を否定しているように思えるのだ。もちろん「初期衝動否定」とは、中二病を大マジで全否定してしまうような心性のことである。
なぜなんだろう? いくら考えてもわからない。彼らが家族や友人や恋人に対して、ことさらに愛情を欠いているとも思えない。現実にドライだったり他人に無関心だったりするとも思えない。だが、出てくる言葉はどれもが「社会システムの充実化」を訴え、その裏返しとして「善意の行動」を否定している。
彼らの親世代が、異常なまでに「精神主義」を唱えたその反動なのだろうか? しかし、たとえば現在三十歳の青年の親が六十歳だとしても、団塊の世代である。団塊の世代は、そんなに精神主義だろうか? どうもよくわからない。
全般的に、ヒューマニズムをとてもじゃないが信じられない、という感触がある。
たまたま、原発事故で献身的な働きをした人をヒーロー的に讃えるのはよくない、というツイートを読んだ。そのこと自体は、納得できる。自己犠牲が、いろんな無理の免罪符になってしまいかねないからだ。
だが、逆に「おれがやらなきゃだれがやる」という心情から出てくる行動力というものも、確実に存在する。そもそもが、「ヒーロー」というものそのものがヒューマニズムを信じていないと出てこられないものだ。讃える者と讃えられる者の間に共通認識が存在していないと、ヒーローというのは像を結ばない。その共通認識とは何かというと、やはりヒューマニズムだろう。
ヒーロー否定というのは、逆に社会システム、物事を動かすシステムが完璧ならばヒーロー幻想はいらないではないか、とする立場だ。その若者の徹底ぶりに、自分は驚いてしまう。
確かに一理はあるが、そうなると「完璧な社会システムは、人間をぜったいに幸福にする」という大前提がなければ成立しない思考だろう。
ところが、「社会システム」そのものにも若者は本来的に信を置いていないのではないか、とも思えてしまうのである。まあ簡単に言えば一種のニヒリズムだが、「計算上のニヒリズム」という感じがする。
かつて全共闘世代は、戦中派から「ごっこ遊び」だと嘲笑されたが、死者も出ている。それなりのリアルがそこにあったわけで、でも最近のニヒリズムはそれよりさらに計算っぽい。ここで「死に近い体験をしている者の方がリアルに近い」などと、くだらないことを言うつもりはない。そのテのおどしは、私世代もさんざん受けてきた。
しかしそれでもなお、「計算上のニヒリズム」を感じてしまうのは、「そんなに絶望したら平静でいられるわけはない」との確信が自分にはあるからだ。
おそらく、かつて「セカイ系」と言われた物語の薄っぺらさの正体は、そうした「ニヒリズム」との距離の取り方にあるに違いない。
……と、結論が出ないまま覚書として書いておきます。
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