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【雑記】・「変わる変わらない論争」

震災以降の日本について、
・これが時代の転換点、人々の志向は決定的に変わる
・いつの時代にも日本人は変わらなかった。これからも変わらない

という二つの考えがネット上に微妙に飛び交っている。

・その1
「変わる変わらない」の話は、もう何十年も交わされているので、正直ウンザリだ。

「時代の転換点」には、二種類あると思う。
一つは、「うわ、おれ時代の転換点に立ち合っちゃってるよ」という強烈な個人的体験をリアルタイムで残す事象。
もう一つは、そのときは気づきもしなかったが「今思えば、あそこが時代の転換点だったのだな」と事後的に感じる事象。

またもっと長いスパンで見れば、どちらの事象も大きな時代の流れに押し流されて行ったり、逆にクローズアップされたりもする。

震災からまだ一カ月。この段階で何かがわかるわけでもないし、もしも言い当てていたとしても、それが正しいかどうかわかるのはかなり後のことなのではないか。

たまに「石原がまた都知事になったのは、日本人の意識が何も変わっていない証拠だ」というようなことが言われるが、別に石原が時代を代表しているわけでも何でもない。
都知事選挙で言えば、そもそも鈴木都知事から青島への変化があった。鈴木都知事は当時「古い政治家」のイメージがあり、それを刷新したのが青島幸男だったことは間違いないから、別にいつまでも「保守的な」とか「戦前的な」政治家が、東京を牛耳り続けてきたわけではない。

むしろ石原は、「戦前の(美しいと感じる)日本」と「戦後の自由」を両方享受し、なおかつ戦前的思想に指をひっかけながら戦後民主主義のオイシイとこどりをするという、かなり特異な存在である。
彼より若い全共闘世代も、傍目からは似ているが、彼らの多くが多少の挫折感を持っているのと違い、石原の場合、戦後に限ってはイケイケなのが特徴である(そして、その裏にはニヒリズムがある)。

(これからの世の中が)「変わる変わらない」という二者択一こそバカバカしい。たとえば明治維新のことなんて何も知らず、一生を過ごした農民だってたくさんいたに違いないからね。

そして人間の思考にいちばん大きな影響をもたらすのは、衣食住などのインフラであることは事実でもある。

日本より前に経済的に凋落した先進国、と言えばアメリカが思い浮かぶ。アメリカ映画がたくさん日本で公開されているので、それを見るとある程度「アメリカ人の思考はどう変わったか」がわかるはずで、実際観てみると、エンターテインメントのレベルでは基本的に、根底的にはそう大きな違いはない。

だが日本の場合は、バブル崩壊以降、すでにエンタメのレベルでガタガタになっている(と感じる)。
その大きな理由は、日本人が「経済成長神話」から抜け出せないからだと感じる。
というか、逆に言えば戦後の日本人の心のよりどころは、基本的に「経済成長神話」しかなかったのではないかと思う。
60年代後半、学生運動などが起こったのも、勘だけで書いているがあそこが「日本が経済成長神話だけを拠り所にして生きるか、それとも違う道を選ぶか」という転換点だったからだ、と事後的には考えられる。
で、実際、「経済成長神話」だけが残って70年代を迎える。

・その2
エンタメだけに話を絞ると、日本は戦後から見れば(注:戦前の流れも含めれば違ったものが見えてくるはずだが、私は戦前のことをよく知らないので)、日本人がいったんリセットされた社会で、50年代から60年代半ばに経済成長を遂げ、60年代半ばから70年代半ばにそれが一段落して学生運動のような「思春期」を迎え、その後、「経済成長神話」だけを選択して再び走り出し、90年代初めにバブルを迎えて、それが崩壊してしまうまでの流れはわりとシンプルである。
問題は、バブル崩壊後も「経済成長神話」を基盤にものを考えざるを得ないことだった。

今考えると、95年の「エヴァ」にはそういう意識がすごく入っていた。
「エヴァ」が原発のメタファー、という要素が入っているのは今の方が理解しやすいし、「エヴァ」の世界が、「いったん従ってきた成功フレームから人類が脱することができるのか、できないのか」というテーマであったことも理解できる(どうもゼーレが古い思考フレームで行動しており、ゲンドウは違うらしい)。

「エヴァ」は、そうした「大人たちの思惑」と、少年・シンジの思考が決定的にズレていくところに面白味があった。
普通、このテの話では「少年少女」が人類の希望となる場合が多いが、「エヴァ」ではそうは描いていない。この辺に送り手の屈折を観ることができるし、「シンジは、世界が変わるのが恐いんだ」というようなコジツケめいたことも、後出しジャンケンで論じることはできるだろう。

だから、何度か書いているが別に震災が起こったからそういう思想がとつぜん現れたわけではなく、考えている人は考えていたのである。

・その3
オタク論的に今後「変わるか変わらないか」で言えば、あまり第一世代の言う「変化」には耳を傾けない方がいい気がする。
経済基盤が不安定になることで、大量消費社会のおとし子であるオタクの思考が変わる、ということはとりあえず納得できないではないのだが、そもそも、「ひたすらに物量で勝負する」オタクのオピニオン・リーダーが、今いるだろうか?

結論から言えば、どのようなオタクでも、いまだに「○○を大人買いしたオレって……」みたいなことを言っている人は、少なくともオピニオン・リーダーのレベルでは震災以前からとっくの昔にいなくなっていた。
時代の変化や自身の生活の変化に合わせて、微妙に立ち位置を変えていっているのが普通である。

同じことはサブカル側にも言えて(というか、オタクVSサブカルという対立項そのものが、古い世代のものだと私は考えるが)、「もうデカい一発は来ない」と主張していた鶴見済は、かなり前からブログで「(いわゆる)物質文明から離れた生活を!」と主張しているし、中森明夫も(未読だが)現状批判の小説をリリースした直後だった。
もともとジャーナリスト的な資質を持っていた町山智浩はアメリカの現状を紹介する方にシフトしていったし、たぶん宮台真司も、あまり著作を読んでいなんで断定はできないが「終わりなき日常」という考えからはすでに遠いところにいるだろう。

つまり、90年代半ばくらいのいわゆる「オタク」という考え方が古くなっていたのは震災前の話なのである。

疲れたので、今回はこれで終わる。

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