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【アニメ】・「魔法少女まどか☆マギカ」

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実は数日前、第1話から深夜までぶっ続けて最終回まで観てしまった。

それまでは1話も、観たことがなかったのだ。

理由はいくつかあるが、このテの既存ジャンル脱構築モノは、日本の場合「どれだけイヤなものを見せるか」というショッキング大会になるのではないか、とイヤな予感がしたのが最大の理由だった。

「この物語はけっきょくイヤな面だけを露悪的に見せて、最後は絶望で終わるんじゃないか?」と思って、なんとなく手をつけられずにいた。
しかし、最終回の放送が終わってから、「希望の物語として終わっているのが良かった」という意見がネット上で散見されたので、観たのである。

そして、その作品の迫力と込められた希望と現在リリースされる重要性に、戦慄したのである。

・その1
「ウォッチメン」[amazon]は、アメリカのスーパーヒーロー、マスクヒーローを脱構築した作品である。
そして、「まどか☆マギカ」は、「魔法少女アニメ」を脱構築した作品である、ととりあえず言えると思う。
完全に相似形ではないが、「ウォッチメン」を知るものはそれを連想してしまうだろう。

「魔法少女」とは何かと言えば、このアニメにおいては簡単に言えば「無邪気に善をなすことを信じ、奇跡を起こそうとする者」である。
しかし、もともと「魔法」とは自然界の法則にさからう力である。それを行使することは、本当に正しいのだろうか……? というようなところから物語は始まる。
まず「魔法少女の善行」を脱構築するところから始まっていると言える。

「魔法少女の善行」が、エゴでしかないということは容易に言えることであり、エゴとエゴとのぶつかり合いなら、昨今非常によくあるパターンとしての「バトロワ形式」がある。実際に、本作にその要素は取り入れられている。

私事になるが、私は映画「告白」を観て、日本のエンターテインメントに絶望していた。「どうせいやな面を見せれば観客は喜ぶんでしょ」という非常に安易なものを感じたからである。
結末も、絶望でしかないものだった。

だから、本作が始まったときも、昨今の風潮からして「もしかして、魔法少女を徹底的にこきおろす作品なのでは」と思ったので、完結するまで録画はしていたが観なかったのだ。

ところが、違っていた。
本作は、「魔法少女とは何か?」を突き詰めた作品なのだ。
それは、この時代にとって本当に奇跡的なことだ。

・その2
「少女の、無邪気に善をなしたいと思う心」は、現実世界でも大人になるにつれて簡単に踏みにじられてしまう。
バキの最大トーナメント編でのご老公の言う言葉、「男はいつ地上最強をあきらめるのか?」という命題と同じで、少女(少年も)たちは、「無邪気な善行」が簡単には反映されないことに気づいて大人になってゆく。

ならばどうするか、という回答が、本作の中で次々と明らかにされてゆく。

ちなみに、ほとんどの場合「ただ勝手にヒーローを名乗っている」だけに過ぎないウォッチメンのヒーローたちが自分たちのヒーロー性を突き詰めて考えた際、究極的には「世界の支配者になる」ことが結論だった。

では「魔法少女」の場合はどうなのか。
「まぎか」の場合は、「ウォッチメン」の結論をも超えてしまった、と私は考えている。
これには考えがおよばなかった。

「無邪気な善」を肯定するために、それを支えるための巨大なる善、として君臨する、というのは、唸らされる結末だ(ほむらが徹底してまどか個人だけを守ろうとしたのと、対照的なところもニクイ)。

それは「ヒーロー」ではなく、「魔法少女」の脱構築からこそ導き出される結論なのだ。

本作にはバトロワ形式の他にも、2000年代によく使われた「時間ループ」の手法や、「願いとの等価交換」の概念も取り入れられている。「2000年代的なアニメ要素」の集大成とも言えるが、最終的な結論を希望に満ちたものにしているところが本当にすごい。

本作は、2000年代のイヤ展開を通過しつつ、新しい希望へと視聴者を導いたのだ。

・その3
ただ、3つ、疑問があることはある。
ひとつには、本作では「祈りが必ず呪いで終わる」という負の連鎖は、人類の進化に不可欠なものであり、なおかつ絶対不変の法則のように描かれているが本当にそうだろうか?
(たぶん、911以降の「憎しみの連鎖」を想定しているのだろうが)

実は呪いによってつくられた幸福な国も、長い歴史の中ではあったりするのでは?
(本作がすばらしいからこそ、こういうことをガチで考えたくなる。)
希望を持って行動し、挫折した者がすべて絶望のうちに死ぬ、というのは人類を少し見くびってるっぽくはある。
また、「単にアホな者」も本作の歴史には計算に入っていないようだ。「アホ」は、道化として世の中を動かすからだ。もちろん真のアホは自分の死に際して絶望などはしない。

二つ目は、「奇跡」と「それにともなう犠牲」を、あまりにも等価交換的に考えている部分。
ここもまた、実際にはそこまで厳密ではないだろう。
「運」を通して、はるかに高くステップした人も、歴史上にはいるに違いない。

三つ目は、「祈りも呪いも、魔法『少女』だけのものである」という基本設定である。
いや日本のアニメを見続けてきた者は、「魔法少女」の象徴的意味は瞬時に理解できるだろうが、あらかじめ「男性」を排除した作品世界は、その背景を知らない人(海外の人とか)には理解しづらいのではないか。
それと、本作のラストシーンが「何もかもを完璧にコントロールする支配階級」という結論にならなかったのは、主人公が少女だったからだという、そのことにも留意しておいた方がいい。

・その4
「少女革命ウテナ」[amazon]は、かつて70年代少女マンガを脱構築した。
その前提の上に、「まどか☆マギカ」は立っている。ここでは「なぜ少女なのか(少年ではないのか)」は問われない。
「ウテナ」では「なぜ少女なのか?」が問われた。ウテナだけではなく、ここ15年でそこら辺の考察は進んでいる。
その上での、本作の「主要キャラが全員女の子」という設定なのである。

思春期の感情エネルギーを利用するなら、男の子でもいいはずなのだが、そこに説明は(わざと)いっさい、ないのだ。
だが、その意味についてあれこれ考えると、面白いと思う。

さて、やっと、限られたパイを食い合うだけの、不愉快きわまりない(と私が思っていた)ゼロ年代的脱構築モノ・バトロワモノから、傑作が生まれた。

本作が一種の奇跡で終わるのか、それとも多大な影響を与えるのかは、楽しみなところである。

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