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【アニメ映画】・「塔の上のラプンツェル」

製作総指揮:グレン・キーン、ジョン・ラセター
監督:バイロン・ハワード、ネイサン・グレノ

若返り、生き返りの魔法が使える美しく長い金髪を持った少女・ラプンツェルは、その魔法を利用して生き続けている魔女によって塔の上に監禁されていた。
塔から出ることを固く禁じられていたラプンツェルは、ある日やってきた泥棒の青年、フリン・ライダーとともに塔を抜け出てお城目指して旅に出る。

傑作だとは思うが……。

本作が「少女が母親から自立する物語」であるのが一目瞭然すぎるかな、とどうしても思ってしまう。
「長い髪」が、「オトコ」によって切り取られるのはその象徴でしょ。
ラストも、ラプンツェルの側から結婚を何度も申し込んで、フリン・ライダーと結婚したことになってる。

ウィキペディアを見ると、なんでも男性客を増やすために、フリンの活躍を多くしてアメリカではタイトルを変えて上映したそうだが、そういう男にも女にも気を配る感、が横溢しているのがアメリカの映画だね。
よくも悪くも。

それが、日本のマンガやアニメといちばん違う点なんじゃないか。
もうちょっとぶっちゃけると、アメリカの映画はときおり「政治的に正しいフェミ描写」が鼻についてしまうことがある。
本作も、ちょっとそういうところがあった。

本作が「フェミ的に正しい(注:本当にそうかどうかは知らんが)」と喜んでいるうちはまだまだで、むしろ本作が「女性の自立」をテーマにしているにも関わらず、「プリンセス」でまとめなきゃいけない、その矛盾に思いをはせないといけないのではないか。
「魔法にかけられて」も確かかなりそういう話だったが、「ラプンツェル」の方が寓意性が前面に出ている。

あと、「萌え」文脈でもぜんぜんイケるキャラ造形だ、っていう意見があってちょっとびっくりした。
まあ、意見は人それぞれだが……。
文脈的には本作の少女の「かわいさ」は、いわゆる「萌え」とはまったく違うものだと思う。

まず、本作が「少女が大人になる」話にも関わらず、性的な部分を巧妙に抜いているのは一目瞭然。
もしもラプンツェルが性的にかわいく見えることがあっても、それはあくまでも「少女が大人になろうとしているから」であって、少女そのものの性的魅力は描かれていないし、そう感じるとすれば「少女の仕草」に「大人の要素」をブレンドしたからである。
魔法で若返っているとはいえ、中年女性として描かれている魔女が女として「現役」であるように描かれているのと、ラプンツェルの「性的魅力」は構築の仕方がまったく同じであることからも、それは言える。

もともと、ナボコフの「ロリータ」自体が、「大人になりかけの少女」を性愛の対象として見るものなのに対し、むしろ日本のロリコン(萌え)は、「成熟しているかどうか」を何ら問題にしない。
なおかつ、ペドフィリアに限りなく近づきつつ性愛自体は拒絶するという、特異な倒錯である(性愛の拒絶なんて建前にすぎないじゃないか、という意見があると思うが、「建前」とセットで「萌え」であり、だからこそ「日本的」なのである)。
それが、海外の少女趣味とは違う点にある。

だから、同じ文脈で語るのには無理があるし、私の予想では、今後もディズニーのようなコドモ向けアニメが、日本的萌えを確立することは今後もないだろうと思う。
アメフト部が支配するアメリカでは、おそらくあらゆる意味でそれはタブーだからだ。

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