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【映画】・「テラ戦士ΨBOY」

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1985年
監督:石山昭信、脚本:原田眞人
原作:マイク・スプリングレイン

ウィキペディアによると「エリア88」と同時上映だったという、SFファンタジー映画。
16歳のMOMOKO(菊池桃子)は、不意に6歳の記憶を鮮明に思い出す。その後、MOMOKOとその幼なじみ・モトハル(井浦 秀知)にはサイコキネシスの能力が顕現する。
彼らは他に4人の超能力者を集め、「水の中に閉じ込められている」と言う宇宙生命体「BOY」を救うため、BOYを使ってエスパー軍団を量産しようとたくらむマッド・サイエンティスト、ゴールデン・フレイム(益岡徹)と戦うことになる。

初見だが、ひさびさに「80年代にひたりたい!」と思って浸りきれた作品。

・その1
本作を簡単に説明するとすれば、旧「ミンキーモモ」とかぴえろ魔法少女のような少女マンガ感プラス、ヌルい幻魔大戦、といった感じだろうか。
現在観てみると、個々の描写に関しては観客を絞りきれていない映画ではある。
たとえば「萌え」描写に慣れきっている人は、ものすごく古臭い作品だと感じるだろう。

しかし、80年代といえば「男が少女マンガ(的なもの)を読む、観る」ということが流行った特異な時代でもある。
もちろん、それは現在、男性が「プリキュア」を観たり「のだめカンタービレ」を読んだりするのとはまったくニュアンスが異なる。
70年代、「男が少女マンガを読むこと」は革新的なことであり、その行為がポップ化して、80年代の少年ラブコメマンガなどに受け継がれたという流れがある。

時代のアイコンとなった「少女趣味なアイドル映画」として、1983年の「時をかける少女」があり、逆に言えばそれだけだったと言える。
「時かけ」の原作者も監督も男性だったため、現在でも「時かけ」を語る際に「少女マンガチックな要素」は抜け落ちてしまいがちだが、まあそういうことなのだ(もっとも、本作の監督も脚本も男性だが)。

整理すると、本作は「描写は前時代的だが、プロットはいかにも80年代」ということになる。

・その2
でまあ、設定やプロットに関しては、あまりに典型的なエイティーズっぽさ丸出しで、何度も解説してきた他の作品とそう変わらないのだが、しかしやはり全体に横溢する「男が観る映画なのにセンチメンタルな感じ」にはグッと来ざるを得ない。
おそらく、リアルタイムでこの映画を観た男子の大半は「菊池桃子が主演だから、こんな少女マンガチックな話なんだろう」と解釈しつつ、違和感と共感を両方抱いていたに違いない。

「BOY」の造形はいわゆるグレイ・タイプの宇宙人。原作は検索しても不明な外国人だが、本作が「未知との遭遇」をベースにしているのは間違いない。
「BOY」は何の根拠もなく「純粋な心」の象徴であり、BOYに共鳴したMOMOKOたち6人の戦士も、純粋な心を持っていたから超能力を得た、とされる。

MOMOKOたちは、ほぼ何の説明もなく「かわいそうだから」という理由だけでBOY救出に奔走する。

・その3
以下は私の勝手な解釈である。
80年代、一部の男性たちは傷つき果てていた。何にか、というとおそらく70年代半ばまでの「政治の季節」に、である。
反論もあるかもしれないが、80年代ロリコンブームと70年代半ばにおける若者の挫折とはつながりがある、と私は思っている。
80年代ロリコンブームの中核とは何かというと、たぶん「退行してもいいじゃないか」という開き直りと、オトナへの不信と、傷つき果てた「純粋な心」を架空の美少女にたとえることであった。

事実、きちんと数え上げたわけではないが、純粋なロリコン作品ではなくとも、たとえば「謎の攻撃的な惑星を探検して行ったら、その中心にはカプセルに入った超能力少女がいた」なんて同人マンガが量産されていたのである。こうしたプロットの場合、80年代においてその「少女」は、作者と読者の「純粋性」の象徴だった。
もっとわかりやすい例で言えば、80年代のロリコンたちがよく観た映画「シベールの日曜日」(1962年)は、傷ついた少女と兵士の心の交流を描いた話だった。一方、意外と(いや当然というべきか)壮大な冗談かとも読めるナボコフの「ロリータ」は、聖典化していなかったと記憶する。

本作もその80年代前半の流れの途上に位置する。「BOY」は、傷つき果てた男たちの心の象徴であり、超能力少女・MOMOKO(菊池桃子)は、そんな自分を救い出してくれる癒しの存在であった。
そのテーマをどれほど観客が素直に受け取ったかはわからないが、「こういうのがウケる」という目算が送り手にあったことは確かだろう。

その後、90年代に入ると本作に出てくる設定やアイテムはすべて陳腐化してしまい、パロディや「あえて」というエクスキューズがなければ使えなくなってしまった。
設定自体が飽きられたというよりも、純粋な「BOY」も、あるいは別の意味で純粋なマッド・サイエンティストも、何もかもがアイドル映画の中でさえ信じられなくなってしまったのである。
(ちなみに、そんな時代に堂々と「陳腐」を持ち込んで成功させたのが、「モーニング娘。」ほかつんくプロデュースの一連の作品である。)

なお、本作はタイムスリップというか、過去と未来を行ったり来たりするという点においても「時かけ」と共通し、なおかつ新機軸を打ち出そうという努力が観られるのも、評価したいところだ。
DVD化されていないようだが……。

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