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【雑記】・「定点雑記20110323、あるいはとりとめないです」

twitterにはもはや思ったことは書けない。気のきいたワンフレーズになりがちで、「うまいこと言う大会」になってしまうし、震災以降の混乱は日常的な面で共通認識を持っていた知り合いとの、非常時の考え方の違いを明確にしてしまうためいらぬもめごとにも発展しかねないからだ。

さて、すべてではないと思うが、ネットでたまたま目についたかぎりの反原発派の人たちのルサンチマンの噴出には、正直引いた。気持ちはわかるけど、戦略的には間違っていると思う。
「反原発運動」が右のものか左のものか、実はまったく知らないのだけど、政府や東京電力が信用できないと思っているのと同じレベルで、一般人の多くはそういう「運動する人」のデータ提示にも信用を置いていない。
とくにヒダリに関しては、原発以外でも「歴史を捏造する」というマイナスイメージがあることは、もっともっと自覚した方がいいんじゃないかと思う。

「大衆人気を信用しない社会運動」にも、このポピュリズムの時代に一理はあるが、反原発運動こそ、大衆から支持を得なければどうしようもないものだろう。
それを、ここぞとばかりに「それ見たことか」とやっていては、得られる信用も得られなくなる。

さて、自分は311の地震の前には勝手にそろそろ「思想の時代」が来ると思っていた。

それは、1995年の地下鉄サリン事件から2010年までの15年間が、少なくとも私個人にとっては「思想」の空位時代だったからである。
もっともそれは私の思い込みとばかりは言えなくて、「ゼロ年代」なる言葉を流行らせた連中が「思想家」として台頭してきたのは、15年間が実質的に空位だったからだ。

ではなぜ15年間も空位になったのか、というと、順番から言ってまず80年代後半から90年代初頭にかけて旧来の新左翼(変な言い方だが)的な考え方が決定的に支持を失い、その次に来た日常改革主義(大きな価値転換を熱望することをやめ、「小さなことからコツコツと」やるべき、という考え方)論者があまりにもつまらなくなったからである。

世の中には「正論だけど面白くない」ということがあるのであって、日常改革主義を声高に主張する人たちが現れたのは、新左翼運動の残滓を叩きつぶすためだった(であろう)ことを考えると、90年代半ば以降、敵を失った彼らが「面白くなくなる」のは当然のことだった。

オウム事件をもって、革命VS改革の対立構造、その論戦そのものが古臭くなってしまったと言ってもいい。

では「小さなことからコツコツと」を発展させるとどうなるか、というと、その思想や行動自体は発展しようのないものであるから、「まじめに働いた後は楽しく息抜きしよう」という展開にならざるを得ない。
というわけで、1995年(エヴァ)から2005年前後(電車男)までが「オタクの時代」となった。
というか、知的な遊びを楽しみたい層の多くが、そっちに流れた。
(「サブカル」の10年間の凋落、が相対的に「オタク」の価値を高めた、という経緯があるが説明が面倒なので省く。)

で、これは私見だが、オタクムーヴメントの最大の弱点は、それ自体に倫理観がないことだ。それはライフスタイルとしては大きな欠陥だ。
このため、そろそろ揺り戻しとして「思想の時代が来る」というのが私の予想だった。

ところが、大地震が起こった。前にも書いたが、非常時に「日常改革主義」は思想としての強みを発揮する。「日常改革主義」は辛抱の思想なので、こういうときにはメチャクチャ強いのである。
一方で、原発問題など、「なかったこと」にされがちだった思考フレームが浮上しつつある。
原発問題は「思想」関係の、問題を複雑にしている最大の要因の一つ、である。

変なたとえだが、UFOにおける「ロズウェル事件」に近い。採取・検討すべきデータが多すぎ、なおかつ錯綜して「運動」の中でも一ジャンルをなしてしまっているのだ。
ネット上の一部の思想・哲学者の混乱ぶり、狼狽ぶりは「原発問題」の複雑さを如実に表していると思う。
そして、その混乱ぶり、あるいは反原発派(の一部?)の「鬼の首取った感」は、「思想の時代」にとって大きなマイナスとなるだろう。

今後、復興計画の構想について、頭のいい人たちからさまざまな「実際的な」問題提議がなされると思うが、それらは「現実的な問題に対するリアクション」なので、思想問題とはちょっと違う。
たとえば「これを機会に、物質文明を見直そう」なんていう話も出てきているが、まあそれは結構にしても、考え方としてはまったく目新しくない。

「ソフト」あるいは「第三次産業」の問題として、エンターテインメント関係が真っ先に打撃を受けたのは自明だが、では「マジメな話」が代わりに浮上してきたかというと、やはりそっちも打撃をこうむってしまったのである。

このように、世の中というのは複雑なものなんである。
ロズウェル事件のように、複雑なんである(ふざけているわけではない。ロズウェル事件も「信用できない政府」という感覚から生まれてきたということで言えば、現状の日本政府の抱えている問題と、質は同じなのだ)。

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