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2011年2月

・「週刊わたしのキモいペット」 衛藤ヒロユキ(2009、マッグガーデン)

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ペットが欲しくて欲しくてたまらない少女・野宮インコのもとに、あやしげな「ペット神」が降臨、気に入るまでふしぎなペットを次々と届けてやるという。そのペットたち、一見カワイイがどれもこれもクセモノで……というギャグマンガ。

私は衛藤ヒロユキは藤子不二雄のカワイイ部分、ゆかいな部分を継げるマンガ家だと思っています。
本作もすばらしかったです。

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・「マスコミ無頼 TVスキャンダル作戦」 堂本龍策、緒方恭二(1979、日本文華社)

悪徳プロデューサーの神代五郎は、ディスコの女の子をレイプしたとされテレビ局をクビに。しかしすぐさまプロモーション会社を設立、かせいだ視聴率のぶん報酬をいただくという仕事を開始した。
視聴率のためならどんなことでもやってのける、神代五郎のテレビやくざ人生を描く。

テレビやマスコミを題材とした同時期の劇画としては、谷あくと原作、峰岸とおる作画の「マスコミ非情派」とか本作と同じ堂本、緒方コンビの「マスコミ戦士(ゲリラ)」があるが、これらが反体制的な側面を持っていたのに対し、本作はどうにもこうにも主人公が本気の悪人なので、どのエピソードもあまり後味がよくない。

なお、いちばん面白そうだった「PART2 超能力操作」の三分の一くらいのページが印刷されていない真っ白なページで、内容がさっぱりわかりませんでしたとさ。

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【雑記】・「気になったので補足」

このエントリのこの一文について、補足。

この頃の少女マンガは「少女が少女であること」は描いても、「少女がオンナであること(男性とは違う考え方をしていること)」を強調することはなかった。

たぶん、少女マンガのフェミ的な読み解きなんてとっくの昔にだれかがやっているだろうし、私が学術的な解説を書けるわけもない。

ただ、やはり補足させてもらう。

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・「ムー大陸の7人」 井出ちかえ(1974、朝日ソノラマ)

世界各国から選ばれた七人の子供たちによる「国際子供キャンプ」のメンバーに選ばれた少女・優は、船が嵐に巻き込まれ、ムー大陸の住人の末裔の住む場所に流される。
そこで優の恋と冒険が始まる。

当時の「失われた大陸」ブームの中で描かれた異郷ロマン。恋ありアクションあり、謎ありで男の子でもじゅうぶんに楽しめる。やや懐古的・保守的言動を許してもらえるなら、この頃の少女マンガは「少女が少女であること」は描いても、「少女がオンナであること(男性とは違う考え方をしていること)」を強調することはなかった。
だからこそ、この時代の少女マンガには、男性もいつでも入って行くことができる。

もちろん、「女が男とは違う思考をしている」と主張されることは、歴史の必然であった。ただし、そういうところから失われるものもある、ということだ。

さて、80年代に、「聖闘士聖矢」や「ぼくの地球を守って」からイメージされたと思われる「生まれ変わりを探すブーム」があった。本作はそれよりはるか前に、「転生による永遠の愛」を描いている。

あるいはまた、作者がイメージした「異郷冒険ロマン」を、80年代に「今すぐぼくらの目の前に」再現しようとしてくれたのがスピルバーグの「インディ・ジョーンズ」だったのだとも言える。

【関連】
気になったので補足

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・「藤子不二雄物語 ハムサラダくん 完全版」(上)(下) 吉田忠(2007、マガジン・ファイブ)

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おっ、その後また復刊されたのか

77~80年くらいまで、コロコロコミック連載。
ハムや肉が大好きな藤本(ハム)と野菜大好き我孫子(サラダ)が、二人でコンビを組んでマンガ家を目指す、児童誌版「まんが道」とでも言うべき作品。

77年当時、ほとんど藤子不二雄の個人雑誌といってもいい「コロコロコミック」に、藤子不二雄の評伝的作品が載っていてもなんらおかしくはない。
藤子不二雄自身の「まんが道」とは別に、本作は「コロコロの藤子不二雄マンガ」として始まった。

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【イベント】・「ぶっとびマンガ大作戦VS面白漫画倶楽部」

面白漫画倶楽部別冊
ぶっとびマンガ大作戦VS面白漫画倶楽部

面白いマンガとはなンだ?!

面白い漫画を追求するイベント【面白漫画倶楽部】と変わった漫画・ぶっ飛んだ漫画を紹介するイベント【ぶっとびマンガ大作戦】がスペシャル対決だよ!!
みんなが知らない面白ぶっとび漫画・珍作・怪作・奇作の大行進。
テーマは【麻雀漫画】、【エロ漫画】、【格闘技漫画】、【海外漫画】。
それぞれのイベント出演者がトークバトルを繰り広げるよ!

【出演】
新田五郎(ふぬけ共和国)
しばた(OHP)
稀見理都(エロマンガ家インタビュアー)
V林田(咲-Saki-ファン)
渡辺僚一(フリーライター)
バッドガイ☆ナベ
KRONOS(SFC CRASH AND BURN)
0E3(おーえさん)
天野年朗(フリーライター)
ほか
【司会】リタ・ジェイ

日時:4月16日(土)
場所:ロフトプラスワン
OPEN 11:30 / START 12:00
予約 ¥1000 / 当日 ¥1500(飲食別)
※予約はプラスワンHPにて近日受付開始!

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・「アガルタ」 石森章太郎(1976、朝日ソノラマ)

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東北から石森プロにやってきたマンガ家志望の黒木シュンは、石森プロにちょくちょく遊びに来るUFOマニアの美少女・橘レミと親しくなる。
しかしシュンには秘密があった。人類の存亡にも関係している秘密が……。なお、彼が石森プロのアシスタントになるために持ち込んできたマンガのタイトルは、「アガルタ」であった。

1974年、少女コミック連載らしい。ヒロインがお蝶夫人みたいなオシャレな髪型をしているのはそのせいか。
絵柄は石森が劇画タッチに変えてから、変に絵が荒れる前のいちばんいい頃である。

本書に出てくるのはオカルトアイテムの数々だ。日本のピラミッド・クロマンタ、竹内文書、アトランティス伝説、そして爬虫類型宇宙人、さらには人類文明に宇宙人が関与していた説、そして「アガルタ」。

はっきり言おう。本作のプロットに、現在読むにあたって新味はまったくない。
当時こそ、石森一流の多読・乱読がオカルトブームとあいまって読者には刺激になっていただろうが、ネット時代の現在、何がどう影響し合っているかがわかってしまえば、プロットの構成やオチは簡単に割れてしまう(私は前から、70年代の石森は大陸書房系のオカルト本を好んで読んでいたと推測している)。

しかし、石森ファンとして観るべき点がないではない。
繰り返し書いていることだが、乱読の中で石森は「ユダヤ陰謀論」なども当然知っていたはずである。だが、私が彼の作品を読むかぎり、安易な陰謀論を描くことはほとんどなかった(もちろん、荒唐無稽な陰謀論は描いた。「ショッカー」とかね)。
時代アクション劇画「九頭竜」でも、日本は背後で敵対する組織が奪い合っていることになっているが、その正体は明らかにはならない。本作「アガルタ」でも、人類の運命を握っているのは二派に分かれた宇宙人だが、そのどちらが悪いというふうには書いていない。

いわば「石森的陰謀論」は、ギリギリまで「ユダヤ」に接近しつつ、おそらく意識的にそこをスルリとすり抜ける。
そして、さらなる荒唐無稽な(たとえば宇宙人などの)対立構造にバトンタッチされていく。
80年代、「幻魔大戦」復活プロジェクトみたいなことが行われていたとき、平井和正の意気込みに比べてどうも石森のトーンが低かった印象があるが、彼の念頭にあるのは究極的には「大連盟」と「幻魔」といった抽象化された組織の戦いだったのかもしれない。

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【創作】・「超自然ノベル 政次郎とトシユキとEM」

pixivに創作短編小説書きました。お暇な方はどうぞ。
超自然ノベル 政次郎とトシユキとEM

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【映画】・「あしたのジョー」

公式ページ
監督:曽利文彦、脚本:篠崎絵里子

ドヤ街にやってきた野良犬のような少年、矢吹ジョー(山下智久)は、チンピラとのケンカでボクシングの才能の片鱗を見せる。
彼にボクサーの原石として惚れこんだ飲んだくれの中年・丹下段平(香川照之)は、彼のコーチを買って出るが、ジョーは度重なる悪事のため少年院に入れられてしまう。
そこでも暴れまわるジョーだったが、プロボクサーの力石徹(伊勢谷友介)と出会い、彼との少年院内におけるボクシングの試合でボクシングそのものへの愛着と、力石という男に対する「友情のようなもの」を感じ取る。

本来、キャリアも実力も段違いであるはずの力石もジョーとの対戦にこだわりを見せ、世界チャンピオンも狙える位置にある力石にとっては価値のない(ただし彼にとっては重要な)矢吹ジョーとの試合が実現することになる……。

いやすごくがんばってると思う。この映画。
昭和40年代の風俗考証がどの程度正確か、ボクシングの描写のリアリティがどのレベルのものかなどは自分にはわからないんだが、「そうだよ、あしたのジョーってこういうところが面白いんだよなあ」ということを再認識させてくれる映画である。

観た人はみんな言うだろうが、香川照之の丹下段平再現度がハンパない。声まで似てるんだもの。
この映画を「あしたのジョー」たらしめている大きな要素が、丹下段平であることは間違いない。

主演二人も、「マンガのキャラを演じました」というレベルにとどまっておらず、きちんと実写のキャラとして立っている。

同じ監督の「ICHI」ではマイナス要因にしかならなかった「スローモーションの戦闘シーン」や「戦いが細かいカットの切りかえによってごまかしているようにしか見えない」といった要素は、原作がマンガであるからか「ボクシング」という格闘技が題材としてよかったのか、なかなか迫力あるシーンに仕上がっている(「クロスカウンターのやり合い」というシンプルな展開が、いい方にはたらいているということも言える)。
もちろん、山下・伊勢谷両者の肉体もボクシングシーンの迫力に説得力を与えている。

物語はジョーと力石の、戦うことでしか語り合えない不器用な友情に主にスポットが当てられている。白木葉子(香里奈)の、「どうしてもジョーと力石の間に入り込めないもどかしさ」がよく描かれていた。
そこに、原作にはない、白木葉子自身の人間的成長をからめる(恋愛要素は極力排除する)という脚本も、非常にうまいと感じた。

ラストも重すぎず軽すぎず、ちょうどいい感じだったと思う。
この映画、決してあなどるべきではない。

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【同人誌通販再度告知】・「ぶっとびマンガ大作戦Vol.16」

昨年冬コミでの新刊、「ぶっとびマンガ大作戦Vol.16」がCOMIC ZINにて通販しております。
今回は「おんがくマンガ特集」。
あと、「ぶっとびマンガ大作戦Vol.14」が現在、通販で購入可能なようです。
ちなみに、「水戸黄門マンガ特集」です。

よろしくお願いします。

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・「かっこいいスキモノ」 泉昌之(1996、イースト・プレス)

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泉昌之の、どっちかというと下品ネタを多く集めた短編集。

面白いのは当然なので、直接関係ないことを書く。

本書を読んでいたら、コミック高岡の「成年コミックコーナー新設!!」という広告と、「コミック・キュー」の広告が折り込まれていた。
たぶん14年前に、本書をコミック高岡で買ったのだろう。
14年も積ん読してしまっていた。

コミック高岡の成年コミックコーナー、しばらく行ってないな。今どうなってるだろう。

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【ポエム】・「プピプピ太郎のだいぼうけん」

三角定規を頭に つけて

両手の甲に 分度器つける

「テレビ観ながら ご飯食べるの やめなさい」

食事中に テレビを見せないことだけが
その父親の 家庭内における 権威だった

それだけが よりどころの 父親

本当に それだけが よりどころ

たとえば 父の職業は
他人のはいたタンを すばやくふき取る

しかも 時給20円

タンをふき取るぞうきんは
自分の給料から買い取る

おかげで 家庭は常に貧しく

いつかの チャップリンの映画みたいに
靴を食べました

靴、意外とうめぇ

靴、パねぇ

うそです

不況下に こんなウソをつく私はダメ人間です

中国語で言うと 駄 目任原 です
モヘンジョダロは もへんじょだろ?

わーわー

きゃー! わーわー

わーきゃーうえーわーきゃー

どんどこどんどこずんどこずん

ずどんどどんどんどんどどずん

空き地で拾った 光線銃

発射したらば 本物だった!

ハーコリャコリャ

コリャコリャハー

ピップルポッペロ
ペロパロピー

習字の時間に 自分の顔を
真っ黒に塗って

人 種 問 題 提 議

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・「尾玉なみえ短編集 脳酸球」 尾玉なみえ(2009、講談社)

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尾玉なみえの短編集。
「燃えよセールス!!」、「スーパーマグナムまむしレディ」、「愛しのレスラー」、「サルっ子ぺぺ」、「サルの子ぺぺ」を収録。面白いからみんな読もう。

それにしても……ちゃんと目次つけてよ!!

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【雑記】・「自分の言いたいこと」

この件に関し、もうちょっとくわしく書いておこうと思う。

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・「マコちゃんのリップクリーム」(1)~(5) 尾玉なみえ(2008~2010、講談社)

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魔法のリップクリームを濫用した罪により、身体が石化する呪いをかけられてしまった魔女・ザイアー。彼女を救うためには、子供にリップクリームを使って善行をしてもらうしかない。
そこで選ばれた目保(めたも)マコが魔法のリップクリームでさまざまなものに変身し、騒動を起こすギャグマンガ。

今頃言うのも何だが、連載最長記録達成おめでとうございます。本来ならとっくの昔にジャンプのギャグの看板背負ってアニメ化くらいされてもいい人だと思っていたのだが、世の中はままならんものですな。
面白い。オススメ。

とにかく魔女・ザイアーのダメ人間っぷりがものすごい。「ジャガーさん」におけるハマーに匹敵するダメさである。
それにしても、「自分のことをまったくダメだと思っていない、不幸だと思っていないダメ人間」というのはなぜ観ていて爽快なのだろうか。


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【雑記】・「観ると目がくさるツイッター」

「twitterは強者のツール。ウェブサイト全盛時代やブログ全盛時代のように、無名のやつが出てこれる世界ではない」と今まで思っていたけど、どうもそうでもないらしい。
聞いたこともない、どこのだれかもわからない人物のつぶやきが、ときおり流れてくるからだ。
その人物は8000人以上の人間からフォローされ、ときおり「ふぁぼったー」でも赤ふぁぼとして流れてくるので、かなり支持されていると言える。
名前を出そうかどうしようか迷ったが、出さないことにする。恨まれるのがイヤだから(笑)。

とにかくこいつのつぶやきが映画「告白」並みに不快であり、「告白」と同様に時代の病を表していると思うので、文章を書きたくてたまらなくなったというわけです。

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【書籍】・「創られた『日本の心』神話 『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」 輪島 裕介(2010、光文社新書)

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「演歌は日本の心」とよく言われるが、現在の「演歌」イメージがいつ頃から生成されたかを検証する本。
執筆者はジメジメ演歌ではなくもっと明るい歌謡曲が好きなようだが、変なあてこすりや自分の趣味に合わないものを糾弾する姿勢は希薄で、好感が持てる。

60年代のサブカル史、すなわち品行方正な文化を志向する既成左翼から周縁文化を持ち上げる新左翼的言説までの流れを詳細に追っており(その後「J-POP」という言葉が出てきてから現在までも論考の対象になってはいる)、「同じサヨクでも言ってることが違うじゃん」と思う若い人は、2000年代までのサブカル評論における思想的背景の概略が把握できる良書である。

ただし、私自身は日本の戦後歌謡史にも疎いし、音楽の専門知識を有しているわけでもない。だから、本当に細かいところまでの、本書に書かれていることの厳密性は保証できない。
しかし、前述のように「同じサヨクでも言っていることが違う」という「流れ」の記述の正確さについては、かなり太鼓判を押すことができる。
そしてそれは、現在の広義のサブカル評論の地図を思い描くにあたっても重要な、基礎教養的な部分なのである。
以下には、その辺のことについて(本書の内容からはやや離れるが)書いてみたい。

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