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【雑記】・「『あぶなーい!』の意味」

かつて80年代(おいおい、また80年代の話かよ)、エロ同人誌の内容はどんどんエスカレートした。
そんな中で、日常会話の中に「おれはさすがにこれはついていけない」とか「ここまで行くと引く」という会話はなされてきたし、現在でも現役でエロマンガを読んでいる人の中では、そういう会話はなされているだろう。
しかし「だから規制しろ」とか「こういうものはやめるべき」という下の句が、その後につくだろうか、という話をしてみたい。

結論を言えば、それは人による。その後は、考え方によって分岐していくだろう。

・その1
かつて、パソコン通信の同人フォーラムや創作フォーラムなどでも、何か猟奇的な事件があったり規制問題についての議論があった場合、「もう少し描く側も何とかした方がいいんじゃないか?」という意見が必ず、繰り返し出てきた。
「何とかした方がいいんじゃないか?」というのはどういうことかというと、「倫理観」の問題となる。

これは議論の初歩において、出て当然の意見だと思う。ただし、私は倫理的に内容を自粛するべき、という考えには十数年前から違和感があった。
だから、「時計じかけのオレンジ」で、極悪非道の主人公が刑務所に入り、そこで聖書を読んでキリストを鞭打つ側になった自分を想像してサディズムの恍惚にひたる、という例を出した。「じゃあ聖書も規制すべきなんですか?」と。結果、ものすごくいやがられた。

私自身は、ひとまずはどんな表現でもなされるべきだと考えている。そこには現実的なさまざまなレギュレーションが必要にはなるだろうが、原理的にはどんな表現でも止められるべきではない。

・その2
で、そのうえで言うのだが、80年代にはとんねるずが「あぶなーい!」という言葉を流行らせた。何があぶないかというと、テレビの放送上あぶないということである。実際にあぶないかどうかはわからない。
当時のテレビだって、そうそう事故レベルの放送をしていたとは思えないので、まあ一種のごっこ遊びであったのだろう。
いわば、視聴者につくり手の「ここから先はやっちゃダメ」という感覚を無理やり共有させる、というアソビである。

私は、こういうアソビは、わかっててやっているなら別にいいと思うのである。

問題なのは、次の段階で、カメラの入っていない日常会話の中で「あっ、今放送禁止用語言っちゃった」と言うような愚かな状況が創出されるということである。
カメラの入っていないところで放送禁止用語を気にする愚。タレントではない我々は、テレビに踊らされる可能性があるわけだ。

特定の言葉をなぜ使っちゃいけないかは、別に日常にガイドラインがあるわけではない。監視カメラや盗聴器で見守られているわけではない。
TPOが正しければ、シモの言葉だって差別語だって、使っていいのである。

この「あぶないごっこ」と「いつの間にか外部で決められた規定に、頼んでもいないのに従おうとする」という現象とは実に微妙なラインでつながっている。

・その3
で、都条例の問題において、いちいち特定の状況を想定しては、「これはアウトなんじゃないか」「いやこれもアウトになるかも」などと言うことが、いかにくだらないかは明明白白なことだと自分は思う。
アウトかどうかを決めるのはトーキョクであって、我々ではない(決められたくもないが)。想像しても仕方がないし、規制側に口実を与える必要もない。

ただし、人間、「あぶないから楽しい」、「特定条件下でしかできないことだから楽しい」ということも事実として、ある。
私は、表現の自由や子供の教育問題など、一連の大きな「都条例」にまつわる問題に比べると非常にサマツで、なおかつ傍流の問題だということを前提とした上で、
「あぶない、と言う自由」
まで奪われた、という気がしている。「あぶないごっこをする自由」が取り上げられてしまった。

都条例に関して、(とくに妄想の中で)性的嗜好の多様さや自由さについて擁護するテキストをさんざん読んだし、基本的にその件に関しては同意するものであるが、ただ「常識のライン」というのがあり、それを超えたから、あるいは超えないから面白い、という状況はぜったいにありうると思っている。

時期的に、こう書くとア・プリオリに「常識」というものがあると断言しているのではないかとか、「常識のライン」を国や都に認めてもらおうという話か、と早合点されるかもしれないが、そういうことを言っているわけではない。

常識というのは時代においても、その場その場のTPOでも変わる。ただし、変幻自在に変わるが瞬間的には存在しうる。
そして、それは原理的には、人と人とのコンセンサスに由来するものであって、それを超えたから法的に罰則を加えるとなると、別の議論が必要になるのも自明の話である。

そのラインとの関係性の面白さ、ヤバさ、ヤバいゆえの楽しさ、そういうことの指摘まで、ネット上ではしにくくなってしまっている気がする。
私が言いたいのは「あぶないから規制しましょう」ということではなく、「あぶないから面白い」ということがある、そのこと「のみ」である。
「あぶなさ」のガイドラインはいろいろ変わるだろうし、そのラインをどこに引くか、ということに常に議論があるのは百も承知である。

どうしても都条例問題に関する規制反対の議論では、性的嗜好の普遍性に話が持って行かれがちで、別にそのことに関して異議をさしはさむつもりはない。
そういうことより、ハダカで町中を歩いたら変だと思われるとか、昼間っからセックスの話を面白おかしく話したらまあ非常識に思われるだろうとか、そういうレベルの話である。

逆に言えば、昼飯を食いながらの下ネタ話は夜話すよりも面白いかもしれない。

わかります?
「あぶないかあぶなくないかを決めるのは、基本的に熟慮した市井の大人であってほしい」というふうに私は思っているわけですよ。
ただし、それと昼間にエロ話していいかどうか、でもしたらしたで面白いかもしれない、という感覚は別、ということが言いたいのです。

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