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【書籍】・「切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」 佐々木中(2010、河出書房新社)

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もしかすると、三八〇万年の永遠のなかでは、自分の生はまったく小さな芥子粒のようなもので、何の意味もないとでも思うのかなあ。言いましょう。それは絶対に無意味ではない。(P202)

「本を読む」ということの不可能性と可能性、「テキストを解釈し、書き変え続けること自体が革命につながる」、「文学は死んだ、なんてもの言いは文字の歴史から考えるとあまりにもおかしな言説」……ということを訴えるのが趣旨の本、だと思う。

ちょっとキツい挑発的な発言が目立つ作風だが、むしろこの筆者の真骨頂は「人間の生は絶対に無意味ではない」と堂々と言えるところにある。

・その1
何度か書いているが、本書がどういう立ち位置にあるか、自分なりに書いてみる。

まず暴力革命が是とされる時代があったことは理解されねばならない(具体的には70年代くらいまでか?)。ネット上の感想を読んでいて、「革命」という言葉にまずアレルギーがある若い世代がある、ということを知った。そういう人は、たいていその歴史的経緯をまったく知らない。

本書で「暴力の前に、まず必ずテキストがあった」とわざわざ言っているのはその辺に理由がある。

全体を通して、「真摯に生きること」が最良の行為だ、と訴えていることはだれの目にもあきらかだろう。そして、普通、「マジメに地道に生きること」は「革命(暴力革命を含む)」とは結びつかない。

全共闘運動から先鋭化した過激派のテロ活動を経て、マスとしての革命イメージがまったくリアルなものでなくなった80年代、「革命的な思考、精神」をどのように保持していくか、ということを考えて残されたのが「日常改革主義」だった。
「改革主義」とは、専門的な意味があるらしいが私の解釈としては、「何かの理論と行動で一気に世の中をひっくり返すよりも、小さなことからコツコツと改革、改良していった方が世の中良くなるよ」という考え方である。
(以下、私なりの解釈として「改革主義」という言葉を使っていく。)

この考えは、90年代半ばにオウムがテロ行為を行って以降ますます強くなり、穏健な知識人はたいていこの考え方である。
オタク論にからませるならば、オタクもほとんどがそういう考え方だろう。オタクは、もともと急激な変化をあまり望まないからだ。

ところが改革主義には最大の欠点がある。それは、やっていてあまり面白くないということだ。
別の言い方をすれば、元気が出ない。人間は面白いもので、自分にとって益のある地道なことをするよりも、損をする過激なことをした方が楽しい動物である。
とくに「改革主義」は、「ハイジ」に出てきたロッテンマイヤーさんみたいな、くそ面白くもないお説教に堕しやすい。
しかし、今さら暴力革命に走れとも言えない。
こうした二律背反をいかに突破するかというのが、「日常改革主義者」の悩みどころであった。そして、彼らが頼りにするのは主にギャグやユーモアであった。

・その2
日本では70年代くらいから話を始めてしまったが、急進的な革命主義に対抗しなければ、という考えは当然、戦前からある。私のとぼしい知識からすれば、戦前の共産主義に対してユーモアによる抵抗を行ったのは探偵小説「ブラウン神父」シリーズが有名なチェスタトンである。

チェスタトンの「木曜の男」という小説の冒頭では、「毎日決まった時間に決まった電車がホームに入ってくることは奇跡だ」というようなセリフがある。これが日常改革主義の骨子となる主張である。
この「毎日電車が来ることは奇跡」という主張は、本書の「テキストを読みこんでそれを書き変えていくことがいかにすごいことか」と、ざっくり言えばつながる。

しかし、ちょっと考えてみれば日常のルーティンワークがつまらないことなんてだれでもわかっているわけで、それが奇跡と言われても……という人も多い。そこで、チェスタトンが採用したのはカトリック的な世界観とミステリ的なトリックとギャグ、ユーモアだった(と思う)。
世界は退屈でも、解釈の違い、視点の変化によって日常が、人間のわかる程度のスピードで変わりうる。

まあたいていは、改革主義を主張する人はそういうスタンスを取っている。

一方で、ギャグはどんどん先鋭化して過激化したり、いじめを誘発したり、パロディや楽屋オチの連鎖で自家中毒を起こしたり、「何が面白いことか」わからなくなってノイローゼを誘発したり、といった「毒の面」を持っている。

あるいはまた、日常改革主義は「日々、ルーティンワークだけを行うべきか、それとも何かあったときには『行動』を起こすべきか」という選択をときおり迫られるという面を本質的に持っている。
逆に言えば、「非日常的な行動」をも「日常改革主義」に取り入れているかどうかで、その主義者のスタンスは分かれる。
それがもっとも顕著に出たのが、例の都条例の問題であることは、勘のいい人ならすでにわかっていることだろう。あれは明確に「日常改革主義者」のスタンスを明確にする踏み絵に、結果的にはなった。

・その3
本書が改革主義の原動力としているものは、ギャグやユーモアではなく過去に起こった人間の歴史そのものと、真摯さ、ということになるだろう。
本書を書いた人物がどの程度、現状の思想シーンに自覚的かどうかはちょっとわからない。

が、私個人は巷で、普通の多少はものを考えている人が持っている「ギャグやユーモアを潤滑油とする改革主義」は、ネット上の急速なネタ消費や再現のないエスカレート、そして「もしかして、それって『やるときはやる』ってことじゃなくて、何にもやらないってことなんじゃないの?」という不信というか日常改革主義のベタ化というか、思想的強度の脆弱性が気になっていたところだった。
いや、はっきりと「日常改革主義」は「浸透と拡散」し、そして弱体化しているのだ。

だから、もう一度背筋を正すためにも、「真摯さ」を退屈さへの補強材料とする本として、いい時期に出たのではないかと思う。

世代論の話になると眉に唾をつける人がいるかもしれないが、この作品の筆者が73年生まれというのが感慨深い。これくらい若くないと、改革主義も革命も、いったん相対化したうえで新たに取り込む、ということはちょっとできないんじゃないかと思うから。

「理論がアクロバティックすぎる」という感想もネットで読んだが、そう思えるのは、日常改革主義が「退屈に耐えることが革命である」という主張を秘めていることから来る、根本的、本質的な問題なのである。

それを踏まえたうえで読むと、私は本書は健闘していると思う。どんなに思索を重ねても、最終的には「心に棚をつくった人間」しか、大きいことは言えないのだから!!


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