«  ・「ももえのひっぷ」(1)~(2) コージィ城倉(2010、日本文芸社) | トップページ | 【お笑い】・「M-1グランプリを観終わって(注:漫才そのものの各論はありません)」 »

【お笑い】・「長かった『お笑いブーム』の終焉に寄せて」

M-1が今年で終了する。
他にも、エンタの神様、イロモネア、レッドカーペットといった大物ネタ番組が終了していったこともあり、異論はあるかもしれないが少なくともテレビの「お笑いブーム」に関しては、いちおうの終焉をみたといっていいだろう。

そこで、番組が放送される前に(後出しジャンケンにならないために)、いちおう総括的な文章を書いてみたい。
(思いついただけでかなりとりとめがないが。)

・その1
まず、「お笑いブーム」はいつから始まったかというと、西暦2000年頃から、というのが私の認識である。
「爆笑オンエアバトル」が1999年3月から始まっており、これが(すべてというわけではないが)お笑いブームのきっかけであると考えられるからだ。
2001年からはM-1グランプリ、2003年からは「エンタの神様」が始まっている。

指標になるかどうかはわからないが、テレビ東京の月~金のバラエティ帯番組「シブスタ」が2004年に始まり、日替わりの司会はすべて若手芸人。1年間の放送だったが、途中から急速にネタ見せ番組へとシフトしていってしまう。

つまり、2004~2005年あたりに加速度的に「ネタ番組」の需要が高まっていったように、自分には思える。
ちなみに2004年のM-1優勝者はアンタッチャブル、優勝を競ってブレイクしたのが南海キャンディーズである。

それまでの、80年の「マンザイブーム」以降の断続的な「お笑いブーム」は、せいぜい3~4年しか続かなかったが(というか「ブーム」というのはそれくらいで終わるのが普通である)、2000年以降のお笑いブームは5年を過ぎてもなんらかの起爆剤が投入されて、もはやブームとは呼べないほどの長期にわたることになる。

・その2
「お笑いブームが10年続いた」というのはとんでもないことだと思うのだが、一方でそれをまったく大事と受け取らない人がいるというのも、過去の「マンザイブーム(と、「ひょうきん族」大人気)」と違う点だろう。
お笑いが好きな人も嫌いな人も、歴史認識として80年から数年にわたるブームはブームだと認識しているはずだ。それは、たけし、さんま、紳助という現在でも活躍するタレントを輩出したということもあるが、何よりテレビにおける「お笑い」の価値観を大きく変えてしまった、ということが理由だろう。
(この「価値観の変化」は、80年代を通じてその後もさんまやとんねるずが後押ししていくし、ダウンタウンも継承する。)

そして、この10年はどうだったかというと、漠然とテレビを観ている人には80年代マンザイブームの頃ほどの変化は感じないようになっている。
個人的感覚だが、その最大の理由の一つは、今回のブームが80年代のお笑いブーム、およびダウンタウン以降の笑いのフレーム内にとどまっている、と思われがちだということがある(実際にそうかどうかは、ここではおいておく)。

たとえるなら、「ジャンプシステム」そのものが確立された80年代ジャンプの印象が強くても、面白さでは劣らないはずのその後のジャンプの隆盛には着目できない、というような感覚に近いのではないかと思う。

・その3
そして、そんな中、今回のお笑いブームの最大の特徴といえば、M-1グランプリを中心とした「まるで競技のようにお笑いを観る」という、「観る側」の視点の変化ではないかと思う。
(「エンタの神様」はまたちょっと違う位置にあると思うが。)

それは、単にいわゆる「ネタ」にとどまらず、80年代中盤以降に定着した「テレビを『つくられたもの』として観る」という姿勢とつながっている。
それまでは、テレビ番組のお約束事というのは、視聴者はほとんど気づかずに観ていた。
最近はギャグとしても使われなくなったが、クイズ番組の競技性をまったく無視した「ジャンピングクイズ」がいきなりねじ込まれたり、バラエティ番組において司会がゲストに「また遊びに来てください!」と言ったりすることが、「番組製作上のウソ」であるということを一定数の視聴者が了解するようになった、ということである。

それがひたすらに加速していったのが、2000年代のテレビだということは言えると思う。

もともと、80年代以降のテレビのお笑いは「楽屋の内部をばらす」という方法をとっていた。あるいは「楽屋の内部をばらす」という「体裁」でつくられた。

それの変奏が、M-1における「ネタを数秒単位で審査する(視聴者も同じように)」ということだった。

M-1は「番組やネタ自身の解体」をハイスピードで行うことによって成立していた番組だったとも言える。
逆に言えば、「『作品の分析、解体』を視聴者がしにくい、競技性あるネタ番組」は、熱狂的なファンを生みにくい。
「R-1ぐらんぷり」や「キングオブコント」の出場者やネタの幅があまりに広すぎるのが、M-1ほどのファンが出てこない理由のひとつだと思う。

・その4
「ネタの分析、解体」を視聴者が意識するしないに関わらず行うようになると、それは「批評行為」につながっていく。ネット上では私のような木っ端野郎も含めて膨大な数のお笑い評、ネタ評が書かれたが、それは「ネタ」というパッケージングされた存在があったからこそできたことだとも言える。

いや自分が考えたのは、そこを超える文章はどうしたら書けるのか、ということだったのだけれど、なかなかうまくいかなかったために、お笑い評を書くのはかなり意識的にやめてしまった。

ここから先は自分の話になるが、2008年のNON STYLE優勝におけるネット上の議論を観て、「これは自分にはもうついていけない」と思ったのであった(そのときに書いたテキストは、我ながら出来が悪いと思って削除してしまった)。

それは、私は個人的には「鑑賞する楽しさ」と「分析する楽しさ」が決定的に乖離した瞬間だった。

別にそれが悪いことだとは思っていない。どんなジャンルでもそれは「楽しさの質の違い」として現れる。
しかし、たとえば「ハロプロ論」がネット上でブームになり、やがて失速していったことと相似形をなしていたように、自分には感じるのだ。

すなわち、批評というのはジャンル自体を変える力はない。
だが、評者にはそれなりの理論があるから、それに合わない現象が起こると批評自体も失速してしまうのだ。
いや、正確にはお笑い論そのものが失速したとは思っていない。むしろこれからのジャンルだろう。ただし、やはり「ジャンルの盛り上がり」と「批評の楽しさ」はどうしても直結してしまう。

その辺の限界が、「ネタを解体・分析する」という方法だけでは、よほどの分析巧者でないかぎり露呈させてしまうのである。

・その5
さらに話を横滑りさせていこう。
個人的には昨年のM-1グランプリだってものすごく面白かったし、優勝したパンクブーブーも大好きなコンビである。
だが、昨年の段階で、M-1グランプリがテレビのお笑い界を変えてしまうかのような勢いは、もはやなかったように思う。

で、ここからが問題なのだが、それをネガティヴに語っていいのか、ということなのだ。

なぜなら、別に「番組の面白さ」、「ネタの面白さ」としては、昨年のM-1グランプリは例年とまったく同じように面白かったからである。

そこで(というか正確にはその前年から)、自分は「自分の立論によって、エンターテインメントとして完成しているものを批判していいのか?」という疑問が生まれたのだ。

番組としてつまらない、ネタがつまらない、というのなら批判されるべきだが、そうではない場合、評者はどういうスタンスを取るべきか?
……ということで、自分はお笑いに関してはある程度、沈黙することに決めたのであった。

・その6
M-1終了に向けて、最後に気になったことを書いておく。
それは、いつぞやの「アメトーーク」で有吉が、「役者界で面白い人はうざい」というような発言をしていたことである。
「役者界で面白い人」というのがどういう意味か、今ひとつわからないが、私は「役者が面白いと思うことを役者の価値観で自信満々に実践する人」というふうに、勝手に受け取った(違うかもしれないが、そう受け取らさせていただく)。

有吉の言うのが、「テレビバラエティの方法論を知りもしない役者が、テレビバラエティ的なことをやって喜んでいる」という意味ではなく、「役者が、役者として面白いと思うことをやるのがうざい」という意味だったと仮定したとして、有吉は「テレビバラエティ的な方法」を「笑いの方法」として最上位に置いている、ということになる。

しかし、芝居を観に行くとわかるが、「芝居の中で定番化したやりとり」というものが存在する。それは映画や落語や、その他のジャンルにも存在する約束事である。

そのジャンル内の約束事なので、それに慣れないとその先に進めず、素直に楽しめない。

だが、考えてみれば我々は十数年間にわたって、「テレビの笑いのお約束」に慣れさせられてきたのではなかったか。
なぜ「テレビの笑いのお約束」にだけは従わねばならず、他のお約束には従ってはいけないのか?
別にそんなルールはないのである。

たとえば、ナンシー関のツッコミの多くは、「さまざまなコミュニティのルールに従っている人が、テレビというそのルールとは何の関係のない場でもルールに従おうとする」滑稽さを指摘するものだった。
具体的に言えば、歌舞伎役者とか、スポーツ選手とか。
そうしたことの指摘は、80年代には自身がタコツボ化していることに気づかないジャンルへの批判、という意味で一つの解放であった。

しかし現在では、「テレビバラエティ」の方法論が、ルールが、ほとんど絶対的なものと化してしまっている。
視聴者は、テレビバラエティにおいて歌舞伎役者やスポーツ選手や、大学教授などが「バラエティ的に振舞わない」と、すでに違和感を感じるようになってしまっているのである。

極端に競技化したM-1グランプリの終了にあたって考えるのは、そういうことだ。

そろそろ、まったく違う「お約束」についても考えた方がいい気が、するのであった。

|

«  ・「ももえのひっぷ」(1)~(2) コージィ城倉(2010、日本文芸社) | トップページ | 【お笑い】・「M-1グランプリを観終わって(注:漫才そのものの各論はありません)」 »

お笑い」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

評論とは」カテゴリの記事