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【お笑い】・「M-1グランプリを観終わって(注:漫才そのものの各論はありません)」

前のエントリは、今年のM-1を観る前に、思いつくままに書いた。
しばらくお笑いについて書いてなかったので。

で、1回観終わって、あとネットで感想もあさって、またとりとめもないことを書こうと思う次第。

・その1
まず「M-1は本当に今年で終了なのか?」という根本的な問題が浮上してきてしまった(笑)。
ネットなどで少しあさったら、「かたちを変えて似たようなイベントは残すのでは?」という予想も多いからだ。
しかし、M-1の象徴的な存在であった笑い飯が優勝したことなども含めて、やはり2000年代は「お笑い」の10年だったし、それに一区切りついたことは間違いないと思う。他のネタ番組が終了していったこととも合わせて。

・その2
今年のM-1を観て、初めて自分の例年の、他の人のM-1評を読んだときの違和感がわかった。
「ハロプロ楽曲大賞」を観に行っていたときにも感じたことと同じで、自分は楽曲単位、個々の漫才単位の評価にあまり魅力を感じないのだ。

もちろん、それはやるべきだし、その方が作品鑑賞の役に立つのかもしれないのだが、自分にはその興味もないし、方法も持っていないことを再認識した。

ネット上のM-1評は、「M-1の競技性」というものに着目したものが多いと思うので、今年の私はその逆を張る(毎年微妙にそんな感じだが)。

M-1グランプリはテレビ番組である以上、視聴率が取れるような仕掛けというか味付けがなされているのは当然のことで、それは本来の「競技性」とは絶対的に矛盾する。

出演者にしろ審査委員にしろ、その集め方にはそれなりのバランスが求められていて、それはデジタル的に決められているのではなく、あくまでも「面白い番組をつくる」という意志のもとに決められている。

だから、M-1という番組は極端に競技性のあるイベントとしても、逆に「バラエティ番組」としても批評は可能である。

・その3
「ポジショントーク」という言葉を、最近知った。要するに自分の立場を考えて、その立場に寄せた発言をする、というような意味らしい。
印象論というのは、ポジショントークになりやすい。

だが、いかに何らかのかたちで計測しても、できるだけ客観的に読解しても、文系の考え方というのはどこかに必ず自分のポジションが入るものである。

というか、それでメシを食っていたりする人だと自分のポジションが入らざるを得ない。

そうなってくると、自分の立ち位置を明確にしつつ都合のいいポジショントークを繰り広げるのも、ギリギリまで客観性を保持しつつ、自分の立場を入れざるを得ないのも、「厳密に正確ではない」という点では同じである、ということには留意したい。

・その4
私が「M-1」で問題にしているのは漫才師のことではなく、むしろ「観る側」の立場のことだ。これは過去、何度か主張してきたことでもある。
「観る側は演者を語りうるのか」、「演者しか演者のことは語れないのか」は、実は評論の根本に関わる問題なのだが、あまり言及されない。

・その5
また、「バラエティ番組」として観た場合、そこに「ほころび」を見出したいというのはもう80年代以降に青春時代を過ごした者の宿命みたいなところがあるのだが、上戸彩の、あの「別に特別お笑いが好きなわけでもない」スタンスが、はたして「番組のほころび」なのか、それすらも番組が計算したのかは、勘だとか演者の経験だとかは抜きにすると、論理的に推しはかることは、不可能である。

もう一度繰り返すと、テレビ評を素人がする場合、どこまでが計算でどこまでが結果論かを知ることは、理論的に不可能なのである。

そして、その不可能下に自分が常にいることを自覚しなければ、我々は永遠にセンスで勝負するナンシー関か、あるいは逆に「アカデミックである」という方法論には勝てないということになる。

・その6
正直、自分は今回スリムクラブが優勝して、みんな「ええ~っ」ってなって、何もかもが破壊されたみたいになって終わればいいと思ってしまっていた。
そして次の瞬間、そう思っている自分は心の底から漫才を愛していないのではないか? と思った。

かといって、たとえば三木聡監督の映画みたいに「笑い」を「攻撃性」とか「破壊」に積極的に利用する方法論にも疑問は残るのだが、最近ムシャクシャしているので「状況の打破」くらいにしか自分は興味が持てないのである。

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