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【雑記】・「一般論として」

まあ「論争」って、サブカル周辺に限って言うと、雑誌でもネット上でも(最近「雑誌での論争」てあるのかどうか知らないが)、最初は理論の応酬になっても、途中から精神論とか人格攻撃とかがあってぐちゃぐちゃになっちゃう。

で、野次馬がクソマジメから「ネタ化」までを一通りやって、いろいろ出尽くして、一周して終わる。

私個人にとっては、退屈きわまりないパターンだし、評論対象となる作品を純粋に鑑賞したい人たちにとってはノイズにしか思えないかもしれない。

でも、「だから評論はつまらない、くだらない、役に立たない」って思われるのすごいイヤなんだよね。でも評論にまつわる論争って、サブカル領域では2000年代に入ってまともなものがほとんどない(あるとしたら、ことあるごとに「保守的」なオタクと、そうではないオタクやサブカルとの対立構造自体が浮き上がっていったこと、そのこと自体かもしれない)。

私個人が、「市井のコトバ」としての批評がいちばんやらない方がいいのは、学会発表とか学術論文の方法論を「過剰に」持ち込むことだと思ってる。
そりゃ厳密性や正確さで言ったら、市井の物言いというのは、学術論文に勝てっこない。相手にならない。

ただし、ザックリしてても人の心を掴んでしまう物言いというのは確実にある。論文的でない「ヌルさ」を越えた何かが、市井の「語り」にはある。
ただしあまりにいいかげんすぎると「理屈と膏薬はどこにでもつく」のデンで、何でもありでどうでもよくなってしまう。この辺のさじかげんをどうするかが、論文まで厳密ではない「市井の文章」のキモだろう。

あまりに論文的な完結性に固執すると、「で、だからどうしたの?」という結論でも平気でドロップしてしまうようになる。
論文ならそれでもいい。閉じた系の中で、たとえばある学問の方法論の中で、あるいは論文の中で、整合性が取れていればいいわけで、結論もそうそう面白いことにはならないかもしれない。

ただし、「市井の文章の面白さ」は、そこにはなくなってしまう。学術的な研究というのは、研究それ自体が目的、というものがあってもいい、らしい。たとえば「超能力はない」ということを証明する研究論文なんか、いくらでもあるだろう。「ない」ということを証明することは、学問にとっては大事なことだ。

だが市井の文章の目的は、違うと私は思う。まず理論の厳密性を説明するために、ひまつぶしで読んでいる人たちを説得することがむずかしい。そして、説得したところで「それがどうしたの?」ということになりがちである。

そうじゃない。ここから先は私のかなり偏った意見だが、みんな元気がほしいわけ。だから元気が出るような、楽しい気分になっていくような「批評的な文章」ではないと、私個人は意味がないと思ってる。

批判するにしても、ある作品を批判するならどのような作品がいいのか、ってことを裏で読み取れるようにしなければならない。
そうすると、けっきょくは「自分が何かについてどうしたいのか」という問題になってくる。

「理論的に整合性はあるけど、で、あなたは何をどうしたいの?」と問われるようでは、「市井の文章」としては、語る意味が半減する。

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