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【超常現象・奇談】・「愛があるとかないとかの話 その1」

日常的に変なものを探しては紹介する、ということに取り憑かれて十数年も経った。
その中にはさまざまな「角度」から「変な」、「笑える」ものがあった。

そうすると、「人様が苦労してつくったものを馬鹿にしている」とか「物事の本質を観ないでナナメに観て重要なことをスルーしている」といった批判も出始めた。
「対象に愛がない」とも。

こういった批判は定期的に表れ、しかも抽象的なものが多い。
「最近のテレビは、タレントが集まって馬鹿騒ぎをするものばかりでつまらない。それにひきかえNHKの自然を題材としたドキュメンタリーはすばらしい」
というような批判と、質としては似ている。

「物事を斜めに観ること」の、80年代以降の「歴史的経緯」については自分なりに説明して何度かテキストも書いてきたが、今回はオカルト、疑似科学、超常現象へのスタンスに絞って書いてみたい。

予想外に長くなってしまったので、「その2」に続く。

・その1
「オカルト」、「超常現象」というと、何やらブンガクの香りがするがそれだけではない。
「オカルト」を「政治」の問題と意図的に切り離して語ったのは、著作をぜんぶ読んだわけではないが個人的には澁澤龍彦と荒俣宏だと思っている。
荒俣宏にはプロレタリア文学についての著作などもあるが、あくまでもエンターテインメントとしてプロレタリア文学を評する、というもので、とにかくこの人は活字中毒で何でも読んでしまうんだなという印象を持ったことを覚えている。

澁澤龍彦も、評伝を読んだのだが細かいことはぜんぶ忘れてしまった(ゴメン)。ただし、彼の書くものを知り合いが的確に評価していた。曰く「大学の一般教養の、ちょっと面白い先生」だと。
澁澤の小文は、「なんだか面白そうなこと」への扉を開いてはくれるが、あくまで案内役にすぎないのだと。

荒俣宏の「帝都物語」は、プラグマティズムのみによってなされてきたと思われた政治やら都市計画やらが、実はオカルティズムによってなされてきたとする伝奇小説だが(これも細かいことを忘れてしまって申し訳ないが)。
同作は物語としては面白いが、オカルトを通過して現実世界において「政治」が生命力というかリアリティを回復するという感触はない。

あくまでも荒俣は、昭和史をオカルト的知識で読みなおすという「ゲーム」を楽しんだのだと思う。

・その2
実はオカルトと政治思想は親密にからんでいる。
まず真っ先に思い浮かぶのは、右翼的な神秘主義だろう。右翼思想は論理よりもどうしても天皇というブラックボックスに思いをはせざるを得ないから。しかし「神秘主義」と断じていいかどうかもわからないし、いろんな意味で恐いのでこの話はここまでとする。

左翼方面はと言えば、まず60年代後半あたりに、インテリぶっててもしょうがない、土着民や先住民までさかのぼって(革命を起こすべき)人々の気持ちを考えようという動きがあり、柳田民俗学を勉強し直したりしていたらしい。

白土三平の「忍者武芸帳」が唯物論的にどーしたこーしたという視点で読まれたのもこの頃。「忍者がオカルトと関係あるのか」と感じる人もいると思うが、「我々農民出身とは違う人々が日本に住んでいた」というロマンの背景には、「体制とは関係のないところで生きてきた人々」への憧憬があった。

忍者だけではなく、サンカとかへの興味もその辺から出てきたらしい。「墓場鬼太郎」の出自が「幽霊族」だったというのも、鬼太郎が人間とは違う、先住民族であったらしいという含みがある。

それらが、オカルトとまではいかないが「隠されたもの」、「ふだんは見えないもの」として受け入れられていった、しかもターザンのように「どこか別の場所にいる」のではなく、「日本の内部に存在する」というリアルを獲得していたことは理解していただけると思う。

なお、日本唯一のUFOカルト「CBA」の事件は60年代に起こっている。「CBA」はカルト宗教であって政治との直接の関わりはないが、終末思想などを背景にしておりある時期までのオウムと少し似ている。

・その3
70年代半ばに、連合赤軍やら何やらがあり、若者と政治の関わりは極端に切り離される。
共産主義革命はうまくいかないかもしれない、という雰囲気が全体的に広まっていく。そんな中、左翼運動からオカルトの世界に行った人は何人かいる。
たとえば古史古伝を次々と出版していった出版社の社長であったり、家畜の解放運動を唱え最終的にはユダヤ陰謀論、最後には爬虫類人の存在の肯定まで行った太田竜がいる。

それほどの大物でなくても、気功だの、自然食だの、有機農法だのといった(それが必ずしもオカルトではなくても、オカルトに近いところにある)方向へ行った人たちは少なくないだろう。

しかし、80年代に入ってインテリたちが提唱したのは、「シラケつつのり、のりつつシラケる」というアクロバテイィックとも言える精神的なスタンスであった。この言葉の元ネタを探し出せなかったが、浅田彰の「逃走論」だの、スキゾだのパラノだのという言葉を思い浮かべていただければいい。

何事にも本気にならず、かといってニヒリズムにもおちいらず、軽やかに時代を乗り切る……といったイメージで、確かにかっこいい。かっこいいが、だれもがそのように生きられるわけもない。
(「だれもがそのようにカッコよくは生きられない」というのは、当時のニューアカの主張全般の弱点でもあった。)

80年代、すでにオウムは存在していたし、他にも若者を吸収していった新興宗教団体はあっただろうが、「シラケつつのり、のりつつシラケる」と言っていた人たちは彼らをどう思っていただろうか。
単に「マイナーな存在」だとだけ思っていて、まさかその後に大事件を起こすとは思ってもいなかったのではないだろうか。

・その4
麻原は、教団運営の問題点を指摘されながらも、マスコミに顔を出すようになって行く。
しかしカルトに入るか/入らないか、は大半の人にとっては「入らない」と答えるであろう問いだ。だから麻原は「あちら側の人」であって、ある時期までテレビの中で(ほぼ)安心していじることのできるタレントでもあった。

テレビというのは恐いもので、今でもそうだと思うが「テレビに出ている人」は、ちょっとあやしげだったり不気味だったりしても、「テレビに出ている」というだけで何となく漂白されているというか、「テレビに出るのはアリだと思っている人」という安心感を与えてしまう。
麻原は、事件を起こす前は「ギリギリ」ではあったが「完全にアウト」な存在ではなかったように思う。
現に、「朝まで生テレビ」にオウムと「幸福の科学」が出演したとき、同席したインテリたちは、オウムが「原始仏教回帰」を考えているというだけで若干、オウムのことを支持していた印象がある。

「幸福の科学」については、別に話をしないといけないし私もそんなによく知らないのだが、とにかくある時期までの「オウム観」は、人々にとって限りなく黒に近いがグレー、だった。

もちろん、オウムの信者たちが「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」なんて器用な芸当ができたはずもなかった。

・その5
で、事件が起こる。象徴的なのは、やはり松本サリン事件と地下鉄サリン事件だろう。
この段階になって初めて、人々はオウムが妄想の世界にとどまらないたぐいのカルト教団だということを思い知る。
私の個人的な印象では、

ある学級があるとする。秀才、ヤンキー、いろいろいるが、秀才の中でもどこかシュッとしたやつは「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」なんて唱えている。
そんな中、クラスでいちばん目立たないヤツがいて、「ムー」だとかなんだかよくわからない神秘系の本を読んでいる。
いじめられているわけではないから、本当の意味で目立たない。

クラスはいろんなやつがいるが、まずまず平和である。教師も、クラス内のパワーバランスをある程度把握していると自分で思っている。

ところが、そのクラスでいちばん目立たないヤツが、恐ろしい殺人計画を練っていて、しかもそれを実践してしまう……。

そんな感じだった。

オウムがサリン事件(と、その他の殺人事件、武器製造などのもろもろ)を起こしたというだけで、それ以前の歴史がガラリと塗り替えられてしまった。

ニューアカ系インテリの間では、(かげりが見えてきた時期ではあったが)人々は「経済大国日本」の「一億総中流思想」にどっぷり浸かって、それに飽き足らないインテリ層はどこにでも「本気にならずに」「しかし落ち込むこともなく」ポップに「退屈な日常」を生きていっていると、信じきっていたのだ。

オウムの事件首謀者が元エリートだったとか、いやいやよくよく調べたらたいしてエリートでもないよというような話もあったが、とにかく事件を起こして何人も殺傷したのは事実だ。
そして、サリン事件の前には選挙に立候補している。

もちろん、もともと公明党などの、宗教団体の関連政党や議員がいるのは日常的な光景だったとしても、オウムの場合、サブカルチャー色が濃厚だったことが、私にとっては衝撃的なことだった。

その2に続く

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