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【雑記】・「まったくの雑記」

すでに、長文のブログを定期的に読むという文化は消滅しているのかもしれない。

まあ、どうでもいいんだそんなことは。
どうなろうと、与えられた場で書ける機会に書き続けるしかないから。
と、本当にとりとめのないテキストを書いてみる。

まあ、幕の内弁当みたいな感じでお楽しみください(ものは言いよう)。

・その1
私は基本的にエゴサーチってしないのだが、たまったま知り合いの名前で検索したら、私が自嘲気味に「会社クビになった」ってブログに書いたことを本気にしている人がいたので、いちおう訂正させていただく。

自分からやめました。ハイ(もうずいぶん前のはなし)。

あまりにも景気が悪くなってしまって、以前はクビだろうが自分からやめようがたいした違いはなかったんだけれど、「解雇」ではないということを強調しておかないと外聞が悪いと思ったので、書いておきます。

ちなみに、当時の上司は現在、やはりその会社をやめてロック喫茶をやっているとか。
参ったよなあ。左巻きだったくせしやがって、90年代~現在までの経済大国日本のおいしいところどりじゃん。
現在、五十代後半か。
まあでも、二十代、三十代ならともかく私の年齢で、上の世代の人間をうらやむのはかなりミットモナイのでやめておく。

・その2
やじうまでミーハーの私が、なぜかチリの地下からの救出ニュースに興味がないのは、自分が(ある意味)閉所恐怖症だからだろう。

最近、それに気づいた。
だから映画やドラマの「刑務所もの」とかも好きじゃない。「ストーンオーシャン」が当初「刑務所もの」だったので、ジョジョを毎週読む習慣がとぎれてしまった。
なお、「どんなものでも我慢して観たり読んだりしなければならない」と思っていた思春期の時期に、自分の恐怖症に耐えながら読んで面白かったのは非常に変わった少年院ものである望月三起也の「四つ葉のマック」である。

・その3
この「閉所の対する窒息感」は、実際に自分が狭いところに閉じ込められていた経験があるわけではなく、11歳から19歳まで受験勉強を続けなければならなかったという、私の人生の特殊事情にある。
11歳から19歳まで、受験に関係のないあらゆることは「どうでもいいこと」であり、すべてのテストは「予行練習」にすぎなかった。
中学受験も高校受験も、大学受験のシミュレーションにすぎないからである。

この11歳から19歳までの経験で、自分はオタクとして出遅れ、なおかつ完全にアタマのおかしい存在となってしまった。

・その4
ある青年誌のある走り屋のマンガを読んでいたら、走り屋になるきっかけが、中卒で働いていた少年が、大卒のヘラヘラした男が大卒であるというだけで初任給が自分の1.5倍だった、それで仕事にやる気をなくしたからだ、となっていた。

そのマンガを連続して熱心に読んでいるわけではないので、そのキャラクターに「行きたくても高校にいけなかった」とかそういうバックボーンがあるのか、ないのかわからない。
その「走り屋になった動機」に関しても、たぶん作品そのもののテーマとは直接は関係ないのだろう。

しかし、格差問題、学費が払えないという理由から中卒となる過去の(70年代くらいまでの)ケースでもなく、今後の新たなる格差社会のケースでもないこの「動機づけ」はかなりデリケートな問題をはらんでいると思う。

なぜなら、「努力の量」ということで言えば、大学に入学した人間だって努力はしているわけで、きわめて感覚的に「大卒のヘラヘラしたやつ」という記号化したキャラに世の中の理不尽さを感じる、というのはちょっとどうかと思うからだ。

もうひとつ「おいおい」と思ったのは、「走り屋」の少年が、自分たちのやっていることを「モラトリアム期間だ」とあまりにも明確に規定してしまっている点だ。
「モラトリアム期間でもいいから、自分が生きたという証がほしい」という気持ちのリアルさ、はわかるのだが、そこに葛藤があまり感じられないことが気になった。
ここら辺は、今後注目していく必要がある。
「オタクは自閉的」と批判されるが、どちらかというと不良よりのコミュニティにいる人たちも「モラトリアムを重視する」という点ではコインの裏表だからだ。

というか、「大人とは何か」という定義が(主に就職難によって)崩れてきているので、「モラトリアム期間」の規定もまた変わってくるだろうということ。

・その5
オタク間でも「最近の若いやつは歴史性や知識を重んじない」と愚痴られ、一般的に「近現代史がないがしろにされている」とも言う。
しかし、「近現代史」すらからも意識的に排除されているのが「全共闘運動の歴史」であったりする。
全共闘運動は、ある意味大衆運動であり、行動の歴史でもあると同時に時代の波を「受容した歴史」でもあったりするから、その全容は簡単には見えてこない。
極論すれば、「受容史」という意味では「オタク史」に近いのだ。

後は全共闘世代で、その運動の「通史」をきっちりまとめられる人がいないらしい、という問題があるらしい。
このまま行けば、あと10年くらいで後続世代に「なかったこと」にされかねない。「なかったこと」にされるというのは、だれかに「都合が悪いから」である場合が多い。
とにかく、この辺のことは一度勉強しなおしてみるつもりだ。

・「ガクセイウンドウ問題」

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