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【書籍】・「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」 前島賢(2010、ソフトバンク新書)

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「セカイ系」は、すでにオタク内での流行語としての役目が終わってしまった感はあるものの、非常に定義が曖昧で、使うにしてもめんどうくさい単語である。

本書では、「セカイ系」という言葉が最初に使われたところから、現在までその定義がどのように変化していったかを丁寧に書いている。
また、「セカイ系」の定義が曖昧であること自体、歴史性から切り離されていると批判する。この辺はなかなか耳が痛い。

そして、「セカイ系」とはアニメ「エヴァンゲリオン」の後半部分、ストーリーが自壊していきシンジの過剰な自意識がむき出しになった展開と、それに影響を受けた作品群であると規定する。

要は「ストーリーが自壊してからのエヴァが、どのようにオタクカルチャーに影響を与えていったか」という論理展開なのである。
この辺の流れは非常にスムーズで、読み応えのあるところである。

また、「セカイ系」の定義の曖昧さゆえに、その言葉が「エヴァ以前」の作品にさえ適用され意味が拡散していくことを問題視している(と、思う)。
何にでも当てはまるならば、わざわざ新しい言葉が出てくる必要が無いからだ。

そこで、「セカイ系」という言葉がとくに必要だった理由として、オタク的作品内における主人公の「自意識」に、それまでの作品とは比較にならないほどクローズアップした作品が登場したこと、ととらえる。
この辺も、なるほどと思わせる。
なぜなら、本作にいっさい言及はないが、それ以前の古参オタクには「文学に対する絶望、あるいは無関心」という裏テーマがあるように、自分には感じられるからだ。

オタク第一世代の直接の母体のひとつとなったと言われる「活字SF」が、「アイディアさえ面白ければ『人間』が描けていなくてもじゅうぶん成立する」という特殊なジャンルであることとも、関連してくるだろう。

さて。

で、以下は私が勝手に思ったことであり、この「セカイ系とは何か」という書籍とはいっさい関係がない。

だから、本書以外に興味がない人、私が「セカイ系」について思ったことに興味がない人は、読まないでいいです。

・その1
「セカイ系とは何か」では、「セカイ系」の固有性を、「オタクが『自意識』に言及し始めた」というところに求めている。
そして、その説にまったく根拠がないわけではない、ということは先に書いた。

だが、私としてはまた別の考えがある。
私自身も「セカイ系」と言われる作品には関心があった。
だが、いくら自分なりに定義しても曖昧で、「萌え」以上に他人に理解してもらいづらい言葉なので、自分の関心を文章にするのに苦労した。

私の関心領域は、「セカイ系」における男女の恋愛だとかそういうことではなく、「なぜこれほどまでに主人公が、作品内世界にコミットする方法が、エンターテインメントにも関わらず欠落しているのだろう」ということだった。
だから、私の勝手な定義では「デスノート」などは「セカイ系」には入らない。
「デスノートを使って世界とコミットする」という理由がはっきりしているからである。

ここから先は、私のかなり飛躍した与太話である。

「萌え」という言葉も定義が曖昧で、共通了解を持たない人には説明がむずかしい。

では「萌え」や「セカイ系」という言葉の定義がなぜむずかしいかというと、

「オタク内で、オタク外の言葉が定義しなおされている」

からだと、自分は考えている。

・その2
二次元、三次元という言葉があるが、まずマンガやアニメやゲームが存在しなかったら「萌え」という概念はネーミングされなかっただろう。
現実世界に「萌え」という言葉が援用される場合でも、それは二次元世界における「萌え」という言葉をやや拡大解釈して当てはめているにすぎない。

そもそも、「オタク」というのはジャンルの名前ではない。考えてみればそれがいちばん不思議なことだと思う。
「オタク」というのはもともとあるジャンルを規定する「スタイル」のことだ。
だから「オタク的なアニメ」もあるし「オタク的ではないアニメ」もある。他のジャンルも同様。

そして、オタクというスタイル内では、なぜかジャンル外の物事を「オタク的に」整え直す、という独特の性質があるのだ。
たとえば美少女は「オタクっぽい美少女」に描きかえられるし、メカだとか世界設定なども同様。
「萌え」という概念も、乱暴な言い方をしてしまえば「恋愛感情」の二次元化、ということができる。

そこで「セカイ系」である。
何度も同じことを書いているが、大枠で日本では70年代半ば以降、若者が政治に関心を持つことの方がむしろ少ない。
近年、就職難や労働問題などで若者の政治に対する関心は高まっているかもしれないが、それにしてもそれは「自分の主張をなんらかのルートで通す」ということが主眼である。
たとえば最近の宮下公園の問題などのように、単なる公園の問題を越えて、反グローバリズムの象徴とするような発想はむしろ少ないのではないか。

言わば、「世界に個人がなかなかコミットできない」のは、70年頃から現在までずっと続いている話なのである。
それを表現として代表したのが、70年代のアメリカン・ニューシネマだ。
アメリカン・ニューシネマにおいては、「世界にコミットしたくてもできない若者の挫折」が、多く描かれた。

「オタクカルチャーにおいては、現実世界の物事や出来事を『オタク的に』整え直す」

という仮説に基づいてみれば、「アメリカン・ニューシネマ的無力感」を、30年かけてオタク的に整えたのが「セカイ系」かもしれない、と言うことができる。

・その3
まあ、「セカイ系イコール『アメリカン・ニューシネマ』説」は少々与太がすぎるかもしれないが、いつの頃からか、少なくとも日本人の若者はとっくの昔に「世界」と幸福につながることはできなくなっている。

「物語における少年と世界の関係性」が、70年代から現在までどう変化していっているか、については説明が長くなりすぎるし私もゲーム方面には疎いので半可通なことを書くのは避けるが、とにかく、「個人と世界の関係」がギクシャクしているのはオタク系メディアに限らない。

ただ、一つ言えるのは「セカイ系」には、異常なまでに主人公が無力な場合が多い、ということだ(そうではない場合は、私の定義からは除外する)。
「セカイ系とは何か」では、それを読者の「自己批判したいという欲望」ということで説明しているが、自分にはその辺に少し納得がいかない。

物語なんだから、主人公に勝てる要素を盛り込んでおけばいいだけの話なのだ。
それをしない、できないというのは、つくり手が物語のパワーバランスとしてそれを「おかしい」と思っているからで、それはなぜなんだろう、と思ってしまうのだ。

・その4
話を少々飛躍させよう。
「非実在青少年」の問題が世間をにぎわし、いまだ予断を許さない状況である。
それまで、「オタクは政治に興味を示さない」と思われていたが、今年の中盤あたりまで、オタクは「非実在青少年」関連の条例を実現させないために、かなり積極的に動いた。
これに関しては、「自分自身の境遇に直結した運動」という意味で、地元の選挙に協力するとか、労働運動をするとか言ったことと変わらない。

しかし一方で、ネット上などでは「やっぱり民主党は信用できない」、「与党となるのは荷が重い」、「どうせ民主党だから」というような言説も、オタク側から、多く聞かれた。

だが、非実在関連の条例を通さないようにと運動したのは、多くは民主党の議員である。共産党の議員もいた。

大枠で「民主党がダメ」で、条例レベルの問題では「民主党ガンバレ」というのは明らかな矛盾である。
「政権は取ってほしくないけど、自分たちの気に食わないことは阻止してください」では、身勝手すぎるだろう。

おそらく、こうした矛盾、ジレンマは以前から当然のようにあったのだろう。
それに対しては、すでに何らかの答えが出ているはずである。同じ議会制民主主義を60年もやっているのだから、そのような問題点が抽出されないはずはない。

だが、私の知るかぎり、オタク側からこの矛盾が指摘された例は、きわめて少ない。

何が言いたいかというと、オタクに限らず、我々(と言ってしまっていいだろう)は、政治を「なんだかあやしい行為、職業」だと思い続けている。できれば関わりたくない、とすら考えている。
選挙の投票率だって高くないし、選挙以外の政治運動に対してはさらに胡散臭く思っている。
いざ行動を起こそうとすれば、ネットがあったので「非実在」関係は「政治家に手紙を書こう」などバーッと広まったが、根本的な矛盾に関してはそのままになっている。

真夏のコミケにおける装備の仕方やお釣りの受け渡し、安いコピー屋がどこにあるかまで情報が伝承し、共有化されるオタクにおいて、こと政治問題に関してはまったく伝承されていない、と、少なくとも私は感じた。

理由は簡単で、第一世代から、もともと「政治的なことに感心が薄い人たち、積極的に関わりたくない人たち」がオタクになっているからである(活字SFのファンダムの歴史まで含めると、必ずしもそうではないらしいのだが少なくとも80年代以降はそんな感じだろう)。

90年代までは「とりあえずサヨクを批判していればかっこうがつく」、現状では「とりあえずサヨクも、さらにはネトウヨも批判していればかっこうがつく」という時代でもある。

ところが、だからといって、若者よ選挙へ行け、政治家を応援しろ、デモをやれ、運動しろ、と言えるかというと、そういうわけでもぜんぜんない。
何のことはない、「セカイ」そのものから断絶しているのは、現状の日本人ほとんどなのである。

「セカイ系」というのがオタク内流行語として陳腐化しつつあろうと、オタクが政治や社会と切り離されてしまったということが、再定義されたということには重要な問題が含まれているのだ。

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