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【萌え談義】・「アニメ絵、萌え絵とは何か(80年代まで)」

だいたい、マンガやアニメ、ゲームを熱心に観ておらず、なおかつ「アニメ絵」、「萌え絵」を批判するやつにロクなやつはいない(検索して二つほどのブログを読んでの確信)。

マンガが好きで、「でもおれはどうしてもアニメっぽい絵がダメだなあ」というのなら、それは理解できる。
別にアニメ絵、萌え絵があるからマンガがあるわけではない。
池上遼一だって東海林さだおだっているわけだし、隣接ジャンルでオタク文化全般が気に食わないという人はいて当然である。

ところが、そこから間違った論理展開をされてしまったのではたまらない(たまたまそういうところを読んでしまったのだ)。
私は争いを好まない人間なので、そこがどこかは明記せずに反論を書いていくことにする。

・その1 萌え絵とは「イラストレーション」ではない
まず「一枚絵のアニメ絵、萌え絵、イラストレーション」は、たとえばエロゲーやラノベの隆盛などで出てきた、ごく最近のものであるというところを確認したい。

たとえば「ピクシブに萌え絵が多い」ということは、実は何の証明にもなっていない。
ピクシブに萌えイラストをアップしている人の中には、アマチュアながらマンガを描いていたりアニメーションをつくっていたりする人もいるだろうし、重要なのは「今は一枚絵を描いているけど、本当はマンガを描いたりアニメをつくったりしたい」という潜在的な数も多いだろう、ということである(あくまで予測だが)。

いつをもってアニメ絵、萌え絵の発祥とするかは諸説あるだろうが、私はオタク第一世代誕生時の70年代後半から80年代初頭だと考える。

実は「アニメ絵」を考察する際、「アニメの絵がどうだったか」ということはあまり関係がない。虫プロの歴史だの何だのは、いっさい関係がない(それなりに興味深くはあるが)。
というのは、「アニメ絵」というのは「アニメの絵」ではなく、「アニメ的な絵柄」が、「アニメ以外に使われたもの」だからである。
もちろん、そのいちばん大きなものは「マンガ」である。

だから手塚治虫の絵は色っぽいとか、荒木伸吾の絵も色っぽいとか、まあ少しは関係あるかなとは思わないではないが、「色っぽいアニメの絵」ということになると「バッタ君町に行く」のハチの女の子だっけ? あれだってじゅうぶん色っぽいわけで、それはまあはっきり言って「別の話」なのである。

・その2 萌え絵とは「イラストレーション」ではない その2
70年代後半から80年代前半、オタクシーンではいったい何が行われたかというと、「アニメっぽさをマンガで再現できないか」という試みであったはずだ。だから一枚絵のことばかり研究したってわかるはずがない。

たとえば、マンガは平面的なデザインでも普通にマンガとして通用する。花形満や矢吹ジョーの髪型が何の違和感もないことがそれを証明している。
しかし、アニメの場合は360度、ぐるりと回る可能性もあるのでどこから見ても違和感がないように3Dに近い方がデザイン的には望ましいだろう。その際の制約は、あくまでも「アニメにするから」というだけのものである。

あるいは肌影の付け方もある。アニメでは、スパッとカッターで絶ち割ったような境界線をつくり、肌に影を入れる。もちろん、「広義のアニメ」においては墨をぼかしたようにしてみたり、いろいろな方法があるのだろうが日本のテレビアニメの通常の製作方法ではどうしてもそうなる。

またはアニメ独特の爆発の表現もある。飛行機などの定番化した「カッコいい構図」も、たぶんあるだろう。
金田伊功の動きをそのままマンガに引きうつそうとした者だっているかもしれない。
それらの、「必ずしもマンガオンリーでは要求されないアニメ上の制約を守ろうとした」のが、最初の「アニメ絵」であったと言える。

そして、なんでそうしたことが流行ったかというと、当事者にきちんと説明されたわけではないが、やはりそういうものが「カッコよかった」と認識されていたからだろう。
決して「アニメっぽい作風」と言えない島本和彦の「アオイホノオ」の中で、アニメのキャプテンハーロックの歩き方をモノマネするシーンがあるが、それがマンガで再現できるなら、した者がいた、というのが当時だったのだろうとは想像がつく。

・その3 「エロ劇画」からのパラダイム変換
もちろん、「アニメの動きをマンガでまねる」ことが「内輪ウケである」という批判は当然あるし、それは甘んじて受ける。だが、その辺はアンチアニメ絵の人もさすがにわかっているだろうと思うが、オタク文化の拡大はぶっちゃけて言えば「内輪の拡大」であった。
「内輪の拡大」は、80年代、「おれたちきょうきん族」を例に出すまでもなく、明石家さんまやとんねるずによって「茶の間の楽屋化」とでも言うべき笑いの変遷とシンクロしている。
オタク文化はそれがいちばんわかりやすいかたちで顕在化しているから、いっちょ噛みでみんなが適当なことを言っているにすぎない。

さて、80年代の「アニメ絵」は、ハウス名作劇場的な絵柄や荒木伸吾的な絵柄があったところに「うる星やつら」の高田明美や土器手司といったアニメーターの絵柄の再流入などがあり、「男性が少女マンガの絵柄をまねる」という要素も加味されて独自の、しかし非常に類似性の高い絵柄となっていった。

で、ここまでが理解できた人でも、たいていの場合、ここから「なんでオタクはアニメ絵や萌え絵を好むのか? それで性的に興奮するのか?」という分析を短絡的にすることになる。
いちばん教科書的なものとしては「絵の記号化が、なんだかわからんけど萌えなんだろう」という理屈があるが、それも仮説にすぎない。

結論から言うと、そんなことはだれにもわからない。子供にある日突然ムシキングが流行り、ある日突然飽きられたとしても、その理由が明確にならないのと同じことである。

もう少し慎重に観ていきたい。
まず、アニメ絵のエロマンガが出現する前には「エロ劇画」というものがあった。というより、現存している。
エロ劇画は、劇画ムーヴメントの中で「より写実的な方がより現実に近く、より性的に興奮できるはずだ」という理念に基づいてつくられたもの、と、ひとまずは言えるはずである。

ところが、これを「現実を拒否し、泥臭さを捨て去りたがったデオドラント文化の世代が、エロ劇画を拒否してアニメ絵に走った」と仮説を立てていいものかどうか。

なぜなら、「劇画全般」にしても、80年代、90年代を通して70年代ほどには、隆盛でなくなっていく印象があるからである。

むしろ、「劇画」そのものが、少なくとも日本のマンガにおいては一表現にすぎなかった、と考える方が妥当なのではないか。

まあどちらにしろ、劇画からアニメ絵のパラダイム変換が、アニメ絵(文字どおり、アニメーションの絵柄の)充実によってのみ、起こったとはとうてい考えられない。

なお、宮崎駿の絵柄が「いわゆるアニメ絵、萌え絵」から観たならむしろ傍流である、ということもつけくわえておく。

・その4 少女マンガ的絵柄の流入について
この件に関しても、いちおう書いておく。
まず、「男が少女マンガを『再評価』する時代」が来た。それも70年代に起こったことで、有名どころでは橋本治あたりが批評していたし、「24年組」が文学と並置されて論じられた。

「少女マンガは絵柄も同じでワンパターン」という批判は、男性側からもかなり後まで偏見として残ったが、これなどは現在の「アニメ絵、萌え絵、萌え的展開」に対する観点と相似形なのが興味深い。

だが、実際少女マンガがきわめて定形的だったのは事実であり、多くの作品が似たようなものだったのも事実である。
ところがそんな中から突出して作家性の高いマンガ家が登場してきた、というのが実際のところで、そういうことはいつの時代でも同じである(いわゆるスタージョンの法則である。ただし、私は残る90パーセントを「クズ」だとは思っていないが)。

話を戻す。男性も少女マンガを読み、感動した。とくに女性の描写や恋愛の描写は少年マンガの中に技術がなく、多くの男性マンガ家が少女マンガから取り入れたに違いない。
アニメ絵とは直接関係ないが、80年代のスポーツマンガやヤンキーマンガのヒロインがなぜか一人だけ少女マンガ風の絵柄だったりしたのも、当時の作家が女の子の描き方がわからず、少女マンガをマネしたところから来ていると思う。

少年マンガは、70年代後半から初めて積極的に恋愛やエロスを取り入れ始めた(もちろん、「ハレンチ学園」のような嚆矢となった作品は前からある)。
その中で、男女区別なく観るアニメや、少女マンガの技術の流入が始まり、それがぐつぐつと煮込まれて「アニメ絵」となったと考えていいだろう、ととりあえずは思う。

・その5 「軟弱」肯定という思想
そんな70~80年代の変遷で思想的に最も重要なのが、少年の中に「軟弱」肯定の思想が入ってきたことだろう。
「何かに打ち込むより女の子と遊んでいたい」とか「体育会系的な上下関係より文系サークル的な友達感覚」とかいった考えである。
「思想」なんてなんで「萌え」と関係あるんだ、と言う人もいるだろうが、思想軽視はトンデモナイ話である。
たとえば米沢嘉博氏はかつて、何かのエッセイで「戦闘美少女の前には戦闘美女があった」と、非常に重要な投げかけをしている。
確かにまったくそのとおりなのだが、「戦闘美少女」と「戦闘美女」の最大の違いは、「戦闘美女」(たとえば篠原とおるの「さそり」だとか小池一夫の「修羅雪姫」だとか)は、あくまでも確固たる「強い理想の男像」があるがゆえのその反転であるということだ。

「軟弱肯定」思想から、初めて「等身大の女の子像」(それすらも、男の子側の妄想の範疇であっても)を創出することが可能になったのだ。
もちろん可能性として、で、極端に妄想の権化として造形された美少女も巷にあふれることになるのだが……。

別の観点から言えば、80年代初頭のロリコンブームがある。
ロリコンブームに関しては、あんまり当事者ではない私が勝手なことを言うのも抵抗があるが、映画「シベールの日曜日」を観ればわかるように、「強圧的な父権社会に対するアンチテーゼ」であったことは、たぶん間違いない。

それらの思想が背景にあって、初めて「少年が好みそうな架空の美少女像」の誕生が用意される。

逆に現在のアメリカのホモソーシャルにおける「かわいい女の子フォビア」を観れば、いかに上記の「考え方」がアンチテーゼであるかわかるはずだ。
たとえばやや無理やりなチョイスになるが、アメリカ映画の「トランスフォーマー」も「ゾンビランド」も、ヒロインは絵に描いたような「かわいい女の子」ではない。前者は(一見)エロエロな女の子であり、後者は「抜け目のない女の子」である。

ジェシカ・アルバのルックスなどを観るに、アメリカ人男性もかわいい感じの女の子が嫌いなわけではないと思うが、そうした造形にしてしまうと各方面から非難が来るのだろう。

・その6 サブカル側からの「軟弱」肯定という思想
ちょっと文章が長くなりすぎてしまった。現在普通に人々が想像するところの「萌え絵」がしっかりと確立された90年代半ば以降の話はまた別の機会にする。
だが私が何回も、しつこく70年代後半から80年代初頭の話をするのは、それがオタク史において最初にして最大の変化であり、なおかつあまり言及されることがないからである。

さて、同じ国の同じ時代を生きているのだから、アンチ萌え絵の多いサブカルサイドの人々も80年代の軟弱思想の影響を受けていないわけがない。
同じ穴に入っているのに同じところに入っているムジナを批判しているように見えるので、私にはせめて批判するにあたってもそこを自覚しておいてほしいと思う。

この辺のサブカル側の身勝手さをいち早く指摘したのは大塚英志だ。ちょっとどこに書いてあったか瞬時に出せないのでナンだが、80年代当時の「新人類」と言われる人たちが、結局は「男権主義」というか「男根主義」というか、オンナをモノにしたのしないの、食った食わないのと前近代的なことを言ってて遅れているのはそっちじゃねえか、というようなことをどこかに書いていた。
(むろん、そこら辺のチャラチャラした部分が分離し、極度に奇形化したのが「スーパーフリー」であるはずだ。バブル崩壊前まで、サブカルとチャラチャラした文化は多少くっついていたので。)

なお、現在のサブカルは「男根主義」とはたぶん遠いところにあることは、私もわかっています。

・その7 アニメ絵批判の最大の勘違い
最後に、「批判自体が根本的にズレている」ことに関して。
繰り返し巻き起こってくるのが「個性がない」、「みんな似たような絵ばかり」という批判なのだが、「アニメ絵」の別の、そして重要な側面として「マネしやすい」ということがあったのを忘れてはならない。

アニメ絵、萌え絵とは当初は「マンガ内描きやすいコード」として機能したために大増殖したのだ。簡単に言えば、「きちんと最後までマンガを描いたりアニメをつくったりできないが、絵は描いてみたい層」に爆発的に広まったのである。

これはマンガ史においては珍しいことでもなんでもなく、手塚治虫大流行の時期は他の作家も手塚みたいな絵を描いていた。あるいは大友克洋ブームのときには大友っぽい絵が流行った。あの江口寿史の絵柄でさえ、大友ブームの延長戦上にあったと言えると思う。

オタクを「零落したインテリと観るか、底上げされた大衆と観るか」というのは私が繰り返し書いているテーマなのだが、私個人は「底上げされた大衆」と観ている。だから、私にとってはオタク論は大衆論なのである。

極度に間口が広く、ピラミッドの裾野は広い。そこから考えても、「ピクシブに萌え絵が多い」なんてむしろ当たり前のことではないのか? と思ってしまう。

サブカルとオタクの最大のすれ違い要因というのはこの「大衆化」への目線の違いに尽きる。
サブカル側は、オタクがなぜ同じようなことをするのか理解できない。オタク側は、サブカル好きの一部に、強迫観念的に「個性」を演出して痛いことになっているのかが理解できない。

また、極度にオタクを嫌ったり批判するサブカル勢にはやはり「大衆化」「無個性」という点に批判的な人が少なくない。
だが、簡単に言えばカラオケにルールがないのと同じである。「カラオケはうまく、なおかつ個性的に歌わなければならない」という批判がいかに的はずれか。

そんなところから出発するから、どんどん話がおかしな方向に行くのである。

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