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【萌え談義】・「ひさしぶりに『萌え』あるないばなし、その2」

【萌え談義】・「ひさしぶりに『萌え』あるないばなし」の続き。

・その1
つまり、前章で何が言いたかったかというと、70年代中盤くらいまで少年マンガが積み残してきた「恋愛のくすぐったさ」が、70年代終わりから描かれるようになった。そして重要なのは、それが「少年はやがて成長し、大人になる」という文脈から徐々に切り離されつつあったということだ。
自分はそれが「萌えの萌芽」だと考えている。

少年ラブコメに関しては、基本的にうっすらと「少年が通過儀礼によって大人になる」という物語パターンが踏襲されているが、同時代のロリコンブームは、ある意味「通常ルートでの成熟を拒否する(別ルートがあるかもしれない)という観点を持っていた。
両者が混交して、80年代中盤以降は「エロではないけど胸がキュンとするような作品、なおかつ成長物語とは必ずしも直結していない作品」が少年向けに描かれるようになって行く。

80年代の若者の「成熟拒否」にはそれなりに理由がある。そのもっとも大きなことの一つは、旧来の成長物語がすでに古いものになりつつあったということがある。
しかし、まだ大企業の年功序列をゴールとした受験システムが強力に生きていたので、80年代の若者の成熟拒否やドロップアウトは、大きな潮流にはなりえず、あくまでマイナーなものにとどまった。

・その2
また、同時代の「アイドル」についても観ていかなければならないだろう。
80年代のアイドルと二次元シーンは、近づきそうで近づかない微妙な関係にあった。むしろアイドルのおっかけなどはヤンキー文化に近かったのではないかと思えるところもある。
また、「アイドルはAVの代用品だったのではないか」という恐ろしい仮説もあって、このあたりもなかなか複雑なのだ。
が、やはり、ほとんど水着にすらならないのに性的対象として観られていた「アイドル」のあり方は、言葉が与えられていなかっただけで「萌え」だったとしか言いようがない要素を含んでいるのである。

・その3
さて、「セックス寸前の寸止めこそが萌え」という仮説を立てたときの最大の反証になるのは、いわゆる「ロリコンマンガ」、「美少女マンガ」がセックスそのものを描いてきた、という歴史だろう。
ここは細かく検証していくと相当に面倒くさい問題となる。
話が「萌え」というかセクシュアリティの問題にはおさまらず、「オタク文化」そのものへの言及が必要になってくるからだ。

だが簡単に言うならば、いわゆる「エロ劇画」から「ロリコンマンガ、美少女マンガ」へのパラダイムシフトそのものが、「萌え」を用意したものであることは間違いないし、
たとえばオリジナル作品としての「ミンキーモモ」と「ミンキーモモのエロ同人誌」との間こそ、「萌え」は存在していたと私は考えている。
その「描かれなかった部分」に、何かがあるに違いないと思う。
(ま、けっきょく雲をつかむような話になってしまうのだが。この辺は90年代からさかのぼって観てみると、わかるんじゃないかと思う。)

確かに男性向け創作は今でも人気がある。しかし、だれもが単にアニメキャラとセックスをしたいだけなのだろうか? 自分にはどうしてもそうは思えない。確かに通常のポルノと変わらない作品も連綿と続いている。SMものやレイプものも少なくない。
しかし、80年代に大半の読者、視聴者が観たがったのは空想の世界とはいえ自分たちにとっての「リアルな性愛」であって、それはひと言で言ってしまうと大塚英志がよく使用していた「かわいい」ものたちだった。

・その4
そもそも、一般的に男性は女性を美しいと思うとき、「かわいい」とつい言ってしまう。あまり「キレイな子がいた」とは言わない。「あそこにかわいい子がいた!」などと言う。これは「萌え」という概念が誕生する前からそうである。

その「かわいさ」を極限まで追求していったのが「萌え」であるということもできる。それまでは「女性のかわいさ」の表現は、アイドルと少女マンガの中にしかなかった。それを少年向けに持ち込み、研鑽を積んだ結果が現在の「萌え」であるともいうことができるのだ。

それではなぜ女性の、男性にとっての「かわいい」が、80年代まで深く追求されることはなかったのだろうか?

それは端的に言って、「男性にとってのかわいい女の子」がショーバイになる、と認識され始めたのが70年代に入ってから、という市場の問題が大きいはずだ。

「男性にとってのかわいい女の子」を真っ先に反映したのは、歌謡界だったと思う。70年代のある時期までは、若い十代の女性歌手まで歌う内容は別れた男が忘れられないとか、あんたの残したたばこの吸い殻がどうしたとか歌っていたのが、天地真理あたりから急速にパラダイムシフトが起こった。
十代の女の子が(大人の書いた歌詞ではあれ)十代の心情を歌う。そしてなお、言外に(あくまで言外に)セクシャルなものをアピールする。

やはり、そこには「萌え」の萌芽的なものを観ざるを得ないわけである。

・その5
さらに重要なのは、「名目上、セクシャルだとアピールされていないものにセクシャルな要素を読み取る」のが80年代初頭のロリコンブーム的なあり方だった、ということである。
たとえば本来、カルピス名作劇場だの宮崎駿キャラだので欲情するということは(同時期のピンクレディーに欲情することはあっても)あってはならないところに、「視点の移動」によって「セクシュアリティ」を成立させる、という態度そのものが「オタク的」であったということである。

それは「星一徹はすぐにちゃぶ台をひっくり返す」とか「実はみんなが思っているほどちゃぶ台をひっくり返していない」というようなオタク的ツッコミと、相似形だった。

つまり、オタク第一世代的ツッコミ目線やビックリハウス的な観点と、「少女に性愛的なものを感じる」ことは「視点の移動」という点においては(ほぼ)同義だったということなのだ。

その意味でも、「90年代の前には80年代があるはずだ!」というのが、私の「萌え観」なのである。


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