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【雑記】・「アートへの理解」

なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか
今まで、どんなに一部のオタク側から叩かれても黙っていた印象の、そんなことはすべて織り込み済みだった印象の、村上隆氏が「オタク側からの批判」に応えたのは意外だったし、やっぱり興味深い。

・その1
まず、氏の


しかし、オタク業界の諸君もさんざんもの凄い情報量の集積の上に立った『ハイコンテクストな見方=正当なオタク道』と思ってるんだろうが、だったら我々の現代美術業界にだってそういった集積とハイコンテクストがあるって理解しても良いだろう。(1)

この発言は正論だと思う。

しかし、「ハイコンテクストな見方=正当なオタク道」という認識は、村上氏が良心的すぎる。
オタクとは、「『恣意的に』集めたものすごい情報量の集積」の上に立って「ハイコンテクストな見方」をする人種なのである。

前にも書いたか忘れたが、たとえばひと昔前のオタクはプログレや中島みゆきをよく聞く、と言われた。服装にはあまり気を遣わない、とも言われた。
アニメやマンガやゲームやラノベへの興味は「集積すべき情報」として、それぞれに連関があるのでまだ理解できる。
しかし、プログレへの興味や「ファッションへの興味のなさ」は一朝一夕にはその理由はわからない(ファッション関係は、「コレクションに金をつぎ込むためにそこまで手が回らない」と言われ続けているが、これは超・大金持ちのオタク、つまり服にまで金が回るオタクを調査してみないと本当のところはわからないだろう)。

また、オタクとミステリとの関わりも微妙だ。もともとオタクは活字SFにハマった人たちの中から、よりヴィジュアルな刺激を志向した人たちの中から生まれた、と言われてはいるのだが、活字SFにハマっていたオタクの第一世代は、教養としてミステリも読んでいたはず。
もちろん、現在でも西尾維新などがいるが、西尾維新好きの大学生がさかのぼってヴァン・ダインなどを読むとは思えない。

「オタクは情報量の集積の上にハイコンテクストな見方をする」というのは、あくまでも対・世間的な言い訳めいた感があって、実はその情報の集積は「オタクっぽい」独特の偏向がある(「オタクにはオタクっぽい偏向がある」と、同義反復的にしか語れない。そして、その偏向について理由が語られたりすることは、ほとんどないし、あっても重視されない)。

このあたりはどこまで本当か知らないが、気志団の翔が言っていた「ヤンキーがあらたまった贈り物をするときはバームクーヘン」というようなことと似ている。

そしてもちろん、オタクの必須教養の中には「アート」というものは入っていない。
「アート」がオタクの必須教養ではない理由は、ある程度明確ではあると思うのだが。

村上氏がオタクからdisられる最大の理由は、村上氏がどうのこうのというよりも、現代アート全般に対する人々の無理解にあるような気がする。

・その2
もともと、村上氏ではなくとも、現代アーティストが何を問題視し、どんなことをやろうとしているのか、オタク以外でも知っている人はどれだけいるだろうか。そんなにいないと思う。

私が「アート」と聞いて連想するのは、昔の藤子不二雄がマンガの中に登場する芸術家だ。
わけのわからないことをさも重要なことのようにいい、変なモノやひどくつまらないモノを重要視し、もちろん作品もまったくわけがわからない。
「ドラえもん」の、テレビの上に取りつけるだけでテレビ放送ができるひみつ道具(名称忘れた)の回で、スポンサーになってくれるおじさんが、自分の顔のアップだけをえんえんと映し出す「現代芸術」を持ってきてのび太たちを困らせる、なんてのが印象に残っている。

エスパー魔美のパパは画家だが、まだしも写実的な作品を描いている。こちらは作品内で「比較的まともな芸術家」として認識されているわけである。

あるいは、テレビニュースにおいて箸休め的に報道される海外の「芸術」。「男女が1000人くらい、全裸になってビルの屋上から写真を撮りました」とか「超巨大な鍋をつくって街中に展示する」など、「トマトぶつけ祭り」や高層ビルに素手で登ってしまう「スパイダーマン」と同列の扱いになっている。

またあるいは、一般人が「なんだかわからないけど、見ておこう」と惹かれる芸術家は、ルノアール、ゴッホ、ミュシャ、ラッセン、岡本太郎、山下清、とかその辺だろう。あと「麗子像」とか。

そんな状態から、「現代アートの最先端はこうです」と言っても、なかなか理解に到達するまでには時間がかかると思う。

まったく同じことは純文学にも言える。話題になるのは毎回の芥川賞のときくらいだろう。
簡単に言えば、「純」ナントカの最先端には大半の人が興味がない。

これには理由がある。まず、60年代の終わりから70年代の終わりくらいまで、進歩的文化人の間には「大衆のことを理解しないといけない」という命題があった。そこで民俗学やサブカルチャーの研究・評価、再評価が行われた。
たとえば平岡正明の批評の領域はジャズ、浪曲、刺青、美少年、山田風太郎、座頭市、極真空手、団鬼六、山口百恵だった。
現在では、新左翼的な言説が強すぎる平岡の批評はまったくと言っていいほど顧みられなくなってしまったが、批評の視点は異なっていても80年代、90年代のいわゆる「サブカル」領域が取り上げてきた興味の範囲と、ほとんどズレるところはなかった。

このため、「純」ナントカよりもよっぽどものすごい質・量でもって「サブカルチャー持ち上げ」が行われ、しかもそれが十数年も続いた。80年代を迎えた頃には一般人の間に「大量消費社会」、「中流意識」のイメージが根付き、グロテスクな輝きを放っていたアンダーグラウンドな領域は、だんだんと一般人も消費するようになってゆく。

そんな中、サブカル好きがファインアート「的なもの」に出会える最大の瞬間は、雑誌の表紙やレコードやCDのジャケットだった。まあそこからそっちの世界に興味を持った人もいるだろうが、むしろグラフィックデザイナーに憧れた人の方が多かったのではないだろうか?

・その3
そのような流れの中で、おそらく大量消費社会をふまえたカウンターカルチャー~サブカルチャー~サブカル~そのものを作品で批評しようとすると、私個人は、それはかえってものすごくわかりにくいものになると思うし、たぶんそれでもそれをやらなきゃならないのが現代アートの現状なのだろう、と勉強してないが予想としては思う。

けっきょくは「アート自体の難解さ、コンテクストの勉強のめんどくささ」という大きな話になっていくのではないか。

たとえばサマー・ウォーズのなんだっけ、あのネット上のポケモンみたいなやつ。あれをかわいいかかわいくないか、カッコいいかカッコよくないか評価するのであったら、だれでもできると思うし、それはそれで楽しい。
でも、もしも「実はあれには裏があって……興味のある方は現代アートを勉強してください」となったら、一気に興味を示す人数は減るはず。

一時期、落語にまったく客が入らなくなったと聞く。テレビタレントとして有能な落語家はいても、たぶん集客には結びつかなかったのだろう。それに、テレビに出ている落語家が落語を語るとき、常にそこには屈託があるように思う。何かを背負ってる。何か、っていうか具体的には落語を。
ずーっと前に早朝の番組で、小朝がテレビの発言テロップやアナウンサーのしゃべりに批判を加えていたが、当然かもしれないが落語を至上のものとし、なおかつテレビを主戦場としない小朝の批判は正論なのだろうがこっちに響いてこなかった。小朝は落語という帰るところがあり、それはいつの間にかテレビと決定的に断絶したからだ。

また別のたとえ話をする。ある時、芸人の友近が「面白い説法をする名物住職」のマネをしていた。もちろん、友近は住職の説法なんて一つも面白いと思っていないのである。「自分の言うことを面白いと思っている住職」を辛辣に批評しているわけだ。
では我々が「名物住職」の話を聞くときに感じる違和感は何なのか、と言えば、彼の説法がどんなに笑いを取ろうが、それは結果的に「仏教をおしえる」ということに収束していかざるを得ないからである。
「面白い雑談」というのは「面白い着地」のためには倫理や道徳なども無視できる。だが、お坊さんの説法はそれができない。

村上氏の発言も、最終的には「現代アートに興味を持ってください」というところに集約されるだろう。その段階で、彼の作品は「コンテクストが理解しやすいフィギュア」とは完全に断絶した存在となる。
まあ村上氏本人はそんなことは百も承知でやっているのだろうが、酷な言い方だが日本国内における、その辺の、他の現代アーティストたちもおそらく抱えている問題に、案外無頓着なのだな、と思わざるを得ない。

なお、「村上氏が批判されるのは『萌え』がまな板の上に乗せられたからだ」という意見は物事の一部しか説明していない。実際、「ギャラリーフェイク」のあるエピソードが有名なように、村上氏disを隠さない、萌えヲタではない人はけっこういるからだ。

日本人は「職人」には全幅の信頼を寄せるが、「芸術家」に対するリスペクトは根本的に薄い。その根はものすごく深いと思う。
オタクの心が狭いというのは、まあそうかもしれないが、コトはもっと大きいと私は考えている。

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