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・「コータローまかりとおる!」(41)~(59)(完結) 蛭田達也(1990~1994、講談社)

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千年間続いてきた日本舞踊の流派「千葉(せんよう)流」。それは舞によってマインド・コントロールと記憶操作ができる禁断の舞踊であった。総帥・吉岡達也はこの舞を使って日本を支配しようと試みる。
さまざまなしがらみによって、達也と対決し日本を救おうとする主人公・功太郎とその仲間たちの戦いを描く。

9月11日昼の町屋のイベントのために読んでいたのだが、「格闘技もの」という観点以外で非常に興味深かったのでここに書くことにする(以下、盛大にネタばれしますので興味のある人だけ読んでください)。

・その1
本作はマンガ評論、というかマンガ駄ばなしにおいても、ほとんど人々の口にのぼらない作品だと思う。
せいぜい「なんで第六部でバンドマンガになっちゃったの?」くらいの話題しか出ない。

しかし、単行本のナンバリングとしては59巻でひとまず完結する、第7部「千葉(せんよう)流編」を読んだら、なかなかにあなどれぬ作品だと再認識した。
(ちなみに、私は第6部バンド編、およびその後の「新コータロー」、「コータローL」などは読んでいません。)

まず、この「第7部」では第1部から登場してきた「蛇骨会」、「紅バラ」などが再登場し、映画版オリジナルキャラとして登場した「吉岡達也」が最重要人物となる。さらには、「バンド編」に出てきたキャラクターも多数登場し、バンド描写にさかれるページ数も非常に多い。
つまり、第7部は82年から連載された「コータロー」の集大成的作品として連載されていたことは間違いないだろう。

・その2
そして、本作でのコータローの「敵」は日本舞踊による「洗脳」によって日本を支配しようとする、右翼的思想を持つ輩である。
同じことを何回も書いているが、「右翼的思想を持った少数エリートによる庶民の洗脳」というのは80年代から90年代初頭頃まで、少年マンガやアニメの世界ではもっとも多いパターンの悪事であった。
なぜそうなったかの答えはまだはっきりとは出せていないのだが、70年代における「庶民による左翼的な革命の挫折」とその反動としての(送り手の)心情的右傾化、または偽装右傾化、あるいは中国の文化大革命がもたらした惨状などがベースになっているはずである。

一方で、コータローのキャラクターは「権力による支配を徹底して嫌う自由人」として描かれていて、そこには一貫してブレがない。これは同時期の吉田聡作品「湘南爆走族」でも同じで、やや飛躍させれば「コブラ」や「キャプテンハーロック」あたりに行きつくかもしれない。
ふだんは自由気ままに暮らしているが、ひとたび仲間に危機が訪れれば馳せ参じ、命を賭ける。意にそわない権力には徹底的に反抗する……そんなヒーロー像が、80年代にはカッコよかったのである。

そうしたキャラクター像も、元をただせば「太平洋戦争や学生運動での同調圧力に対するダマされ感」によってつくられたと言える。
自由人のヒーローとエリート主義の悪役は、そういう意味では(90年代初頭まで)表裏一体なのである。

・その3
そんなわけで、「千葉流」総帥・吉岡達也は「軍国主義の亡霊」と言われる老人、武心館空手道場の総帥・赤岩心水と手を組み、日本支配をしようとする。
ここで使われるのは「千葉流」の洗脳する「傀儡の舞」を会得した女性アイドルグループ「マリオネット」である。
達也は赤岩心水のコネと財力でもって「マリオネット」を大々的に売り出し、メディアを通じて日本人全員を洗脳しようとする。
それに対し、コータローは、唯一「傀儡の舞」の洗脳を破れる歌唱力を持った少女・渡ヶ瀬真由美をヴォーカルにすえたバンド「ザ・コータローズ」を結成。華僑の財力を借りて、渡ヶ瀬真由美の歌声によって「傀儡の舞」による日本国民洗脳を阻止しようとする。

この展開には、シリーズ通して観るとやや唐突に入れこまれた感のある「バンド編」を、格闘アクションコメディとしての「コータロー」にあらためて組み入れようとする意図が観られる。
また、「歌」、「音楽」を「洗脳の最高の道具」とみなすという考えは、「超時空要塞マクロス」や他の数多のバンドものにある設定である。「マリオネット」側の「ダンス中心のアイドルユニット」には、本作で何の悪意も感じられないが、「コータローズ」側のハードロックが「洗脳を解く」というのはロックイコール自由、という図式が現在よりもっと強かったエイティーズ的な考えだとは言えよう。

・その4
さて、赤岩心水の野望は(少年マンガの展開から言って当然)崩れ去る。そして実は、彼と手を組んだ吉岡達也の背後には、CIAがいた。
CIAの目的は、ソ連崩壊によって仮想敵が存在しなくなった軍産複合体が、経済大国日本を「新たなる敵国」として育て上げるため、ということだった。

この辺、落合信彦が元ネタだと作中で明記されてはいるが、「コータロー」が80年代を通じて連載されてきた作品だと考えるとなかなか興味深い。
というのは、作者が意図したしないに限らず、「権力が干渉してくれば反抗するが、基本的には自分自身がヘゲモニーを握ることを拒否する男」がヒーローでいられるのは、体制そのものが安定していられる時期に限られる。
そして、80年代のそうしたヒーロー像の背後には、やはりどう考えても「冷戦」があったからである。

コータローにしろ、湘爆の江口にしろ、彼らは基本的には現体制を消極的に容認している。だからこそ、反抗者としての自分にはこの時代に出番がないと知って道化めいた態度をとったり、自分からシャレで済む騒ぎを起こしたり、体制下の隙間で私腹を肥やしているような連中を退治するわけである。

その冷戦が、終わった。ゆえに、アメリカが日本を仮想敵国に「仕立て上げる」……というのは、荒唐無稽な話だが当時としては少年マンガへの、なかなか画期的な放り込みである。おそらく、少年マンガとして直接的にこんなことを描いたのは本作くらいだろうし、80年代前半からの長期連載ゆえに、そこには大きな意味が生じてくる。

・その5
別の角度から見てみよう。
この第7部が興味深いことのひとつは、「人間の死」を正面から描いた点にある。
本作には脇キャラとして「火納江陽水」なる空手家が登場する。「素手で人を殺す」ために空手をやっている男で、それも一方的な殺人ではなく、互角の勝負の上で相手を殺害することを信条にしている。十数人は殺したと告白する場面がある。

格闘マンガとしては、「人を殺すことを何とも思わない」キャラが登場するということは珍しくないし、展開がハードになって学園内におさまりきらなくなっている以上、こういう人物を出すことは不可避である。
だが、この火納江というキャラにはどこか愛嬌があり、憎めないし、だからといって改心することもなく、最終的には死んでいる。

コータローは、戦ってもぜったいに敵を殺さない、というのが心情の主人公だからどうなるかというと、本作における「殺人者」は、何らかのアクシデントや自分の責任で死んでいくのである。
こういう方法は、はっきり言って非常に古い。いわゆる「因果応報」の法則にのっとっているだけだからだ。
だが、それゆえに本作がコータローという「ヒーロー」を描くことに重きを置いていることの証明となる。「悪人を殺すか否か」を突き詰めていくと、どうせ映画「ダークナイト」みたいな展開になるに決まっているのだから、これでいいのである。

・その6
そして第7部のキーパーソンである「吉岡達也」も興味深い。
吉岡は、「千葉(せんよう)流」の跡継ぎとして父に厳しく育てられたが、それは父としての厳しさではなく、単に「千葉(せんよう)流」を存続させようとするために、吉岡を人形として利用することだった。父には達也に対して一辺の愛情も観られなかった。
自らが父に操られていたと知ってから、吉岡は「傀儡の舞」によって日本国民全員を操ることを決意する。

つまり、吉岡は「センスエリートによる独裁政治」を夢見る美形の少年、というステロタイプなキャラでいそうでいて、実は「男組」の神竜剛次などとはまったく違う動機を持っている。
むしろ独裁軍事国家に興味を持っているのは老人の赤岩心水のみで、吉岡の心の中にあるのは徹底した虚無、「無」なのである。

現在、「バトルロワイヤル」形式のマンガやアニメやドラマは非常に多い。あるいは「ゲームの設定、基盤をつくった者はどこかに行ってしまい、残された人々は残されたゲームをやり続けるしかない」というプロットの物語ならばもっと多いだろう。

現状の「バトロワ形式」の物語と世相の反映については、だれかが詳細な分析をしているとは思うが、うがった見方かもしれないが、吉岡の行動は後の「バトロワ形式」の物語のさきがけと言える。
なぜなら、吉岡は自分を「踊らせていた」父はすでに復讐して殺してある。そして自身は千葉流の総帥におさまっている。本来なら彼の復讐物語は終わっているはずなのだ。だが、彼は死んだ父に自らが、現在も踊らされていることを知りつつも、その行動をやめることができないのだ。
踊らされていた者が、今度は他人を踊らせようとする……これはなかなか考えさせる話である。

もう一方で「信じるもの」というテーマがある。本作にかぎった話ではないが、主人公は周囲の愛情に支えられているケースが多い。主人公のパワーの根拠は愛情なのだ。コータローの場合なら、渡瀬麻由美や天光寺、鹿斗典善などがいる。
一方、吉岡は「善く生きる」ためのたった一つの動機であった「妹」の存在に裏切られる。このため、吉岡には今生で生きる意味は、ほぼまったくない。ただ一人、彼の双子の兄弟の存在を除いては……。

「虚無的で生きる価値なんかないと思っていて、単に人を苦しめるとか自分と同じ目にあってほしいと思うだけでひどいことをする」というタイプの悪人キャラは、90年代後半以降、ラノベなども含めて馬に食わせるほど登場する。
もはや、「悪」にも大義はほとんど消失したのだ。
だが、吉岡達也がその心情を明らかにしたのは、エヴァンゲリオンさえ登場する前の90年代前半である。
彼は、真田広之が演じたいかにも80年代的なおふざけキャラだったのが、最終的にはいわゆる「セカイ系」的なキャラクターにまで変化するのである。

今読んでこそ「なるほど」と思う部分だが、ここは強調しておくべきだろう。

・その7
そして94年の終わりに、この「第7部」の連載も終わる。その後の「柔道編」を私は読んでいないとお断りしつつ、第7部がピッタリ94年で終わったのはある意味わかりやすい。

それは、95年以降、象徴的な出来事として「エヴァンゲリオンの放送」と、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こるからである。
エヴァンゲリオンは、ざっくり言ってセカイ系の端緒であり、父と子の断絶の物語であり(「巨人の星」と似て非なる関係)、オウム真理教も、ざっくり言って「80年代的な洗脳の実践」であり、サリン事件は「選挙による人心掌握が不可能だとわかったための、一種の逆ギレ」である。

95年を境に、それまではまだしも物語の世界では信じられていた「冷戦構造下のバカ騒ぎ」や「右翼のフィクサーである老人が陰で日本を操る」、「それに市井のあんちゃんたちが反抗する」といったような物語は、完全に古いものとなってしまった。

そういう意味で、「千葉流編」は、80年代的な物語(正確に言えば、80年代前半からバブル崩壊後くらいまでの物語)の、結果的に集大成となったのである。

あまりに王道すぎるゆえにあまりマニア筋には語られることのないこの作品、本当に最後まで王道を突っ走って終わったのだなあと、完結して10年以上も後になってから思ったりするのであった。

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