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【雑記】・「ある芸能リポーターの死」

追悼をきっかけに、いろいろと思うところがどうしても出てきてしまう。そしてそれは批評的なコトバになってしまう。
しかし、亡くなった人について個人攻撃をしたいわけではないので、「ある芸能リポーターが亡くなった」ということをきっかけに、話を進めることをお許し願いたい。

まずこれをきっかけに浮上するのは「芸能リポーター」、「芸能マスコミ」のあり方論だろう。ある種の人にとっては芸能情報を垂れ流していたかつてのワイドショーこそ日本人の民度の低さを証明する唾棄すべきテレビ番組であった。
あんなものはなくなってもいい、あんなものは人々の知性にまったく寄与しない。それはひとまず正論ではある。

正論ではあるが、人間には何かガス抜きが必ず必要である。「芸能ゴシップ」が、「最適なガス抜き」かどうかの議論はあるにせよ、「人の噂をする」ということがガス抜きであることは、芸能ゴシップがテレビであまり放送されなくなってからも、少しネットを漁ってみればすぐにわかることだ。

さて、問題はその先である。

その1
以下の文章は、「人間にはガス抜きは必要であり、その最適解ではなかったかもしれないが、おそらくガス抜きとして機能していたのが芸能ゴシップである」ということを前提とする。

そして次の段階で、「芸能リポーターが担っていた役割がネットの某巨大掲示板に移行しただけにすぎないが(それは私もそう思う)、それは果たして『ゴシップの大衆化』(変な言葉だが)を意味するものであろうか?」という問題が出てくる。

ここには複雑な要素があると、私は思っている。

亡くなった芸能レポーターが担っていたのは、「昭和的」とも言える芸能ゴシップである。
テレビで、たとえばサッチーと浅香光代のバトルなど、世にもくだらない、本当に心の底からどうでもいいゴシップが伝えられなくなって久しく、それがなぜ最近あまり観られなくなったのかはきちんと調べなければわからない。

それはジャニーズだのバーニングだのの鶴の一声で決まったのかもしれないし、テレビの視聴率が関係しているのかもしれない。わからない。

しかし、二点、芸能界に関して言えることがある。それは以下のようなことである。

・未成年が大人に交じって仕事をする世界であり、しかもその未成年の重要度が極度に上がる場合があるという特殊事情があること
・芸能人は規範を守ることと破天荒であること、という矛盾した要求を一般人から突きつけられていること

そして、この二点は昨日今日の話ではなく、80年代から現在まで、30年間くらい続いてきたことである。

その2
まず「未成年者が芸能人として働く」ことの何が問題かと言えば、まだ大人の世界のことをじゅうぶんに学んでいない子供がスキャンダルに見舞われたときの教育的な問題はどうするのか、ということがある。
よく、芸能人の倫理観が問題になるとき、「ああいう人たちはカワラなんとかなんだから、倫理観を要求することがおかしい。芸さえあればいい」という意見を耳にする。だいたい正論だと思うのだが、それが未成年だったらどうか。
前近代的な国ならともかく、先進国日本では「教育的配慮」があってしかるべきではないのか。

この一点があるから、私は「芸能ゴシップは庶民のガス抜きだから全肯定する」ということが、どうしてもできない。その存在価値を主張するとすれば、せいぜいやむをえぬ「必要悪」という程度だろう。

もともと、日本の芸能界でもアメリカでもそうだが、「未成年を性的対象として観る」という商売をしているわけである。
それはどういうことかというと「青年(女性も含む)」を非常に大きなマーケットとして成立しているということだ。
それは、「じゃあ未成年の活動を規制しましょう」なんていうことではおさまらない。60年代以降、「青年(女性も含む)」というものに価値を与えてきたのは、時代そのものの激しい潮流のようなものだからだ。
「青年(女性も含む)」は、いつしか「賢い子供」でも「能力の劣った大人」でもなくなった。このことについては、考えてみなければならない。

次に、「規範としての芸能人とかぶき者としての芸能人という矛盾」だが、これについては不勉強でいつ頃始まったものかはわからない。

よく通俗的に言われるのは、「手の届かない銀幕のスターから、お茶の間の人気者たるテレビのスター」への移行の過程で起こってきた変化だ、ということだ。
が、たとえば映画製作の現状が逐一、茶の間に報告されるようなメディアが映画全盛時代にあったとしたら、どうなっていたかわからない。人々は映画スターに関してもただ「知らない」だけだったかもしれない。

とにかく、「規範としての芸能人とかぶき者としての芸能人という矛盾」は深刻だ。
なぜこんな矛盾が生じたのか、数分考えたくらいではよくわからない。仮説として言えるのは、「被差別的存在としての芸能人」という感覚はものすごく昔に、たとえば戦前あたりですでに消滅していたのではないかということ。

どんなに遠い世界であろうと、やはりいつの頃からか芸能人は一般人にとって「仲間」になったのだと思う。仲間として憧れ、規範を求める。しかし芸能界自体は、おそらく一般人が納得しがたい、別の規範で動いているはずだ。
たとえば政治の世界だって、一般人とは違う規範で動いてはいるのだろうが、やはりスキャンダルが露見したらそれなりの責任は取らねばならない。しかし、芸能人は果たしてどうか。この矛盾が解決されないかぎり、芸能マスコミは矛盾した存在であり続けざるを得ないだろう。

芸能ゴシップは、そのような矛盾を抱えたまま、現状存在している。その矛盾は、簡単に言うと「プロとアマがボーダーレスになった」瞬間から起こっている。だからこそ、「芸能ゴシップ」は、政治スキャンダルの何倍もやましい。
我々は芸能人を、あるときはプロとして扱い、あるときは「近しい人」として扱って、手加減次第でもて遊んでいるからだ。

しかし、「プロアマボーダーレス」でないと、テレビの真価は半減する。巨大なるプロと素人の入り混じった帝国、それがテレビだからだ。
芸能ゴシップの矛盾は、テレビそのもの、やや大げさに言えば戦後体制そのものの矛盾でもある。

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