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【書籍】・「完本 1976年のアントニオ猪木」 柳澤健(2009、文芸春秋)

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現在の総合格闘技は、アントニオ猪木がかたちづくった「イメージ」によって発展し、最終的には猪木の、そしてプロレスのくびきを解かれた。
日本人(少なくとも、現在四十代以上)の「総合」イメージは、70年代のアントニオ猪木によってつくられ、とくに76年には猪木は四つのリアル・ファイトを行っているという。

それが柔道家ウィリアム・ルスカ、ボクサー・モハメッド・アリ、韓国プロレス・パク・ソンナ、パキスタンのレスラー・アクラム・ペールワンとの戦いであったという。
本書は、この四つの戦いを忠実に取材している。私はプロレスマニアではないが、パク・ソンナ戦以外は「聞いたことがある」試合である。アリ戦はテレビで観ているし、ペールワン戦は伝説化している。
本書における、プロレス的な「伝説」からひきはがしてそれぞれの戦いを検証するという試みは非常に面白い。
結論から言えば、それは「アントニオ猪木」というレスラーの異常性、特異性ということになる。

繰り返すがめちゃくちゃに面白い。面白いが、文庫版解説にあるように本書を「歴史書」だとは、私はあまり思わない。

・その1
その最大の理由は、「総合格闘技」、いや「格闘技的なるもの」から「日本のプロレス」を引きはがそうとする意図が、あまりにも見えすぎるからだ。
本書では、日本のプロレスラーが力道山の時代から、アメリカのプロレスに本来ある「ユーモア」の部分を意図的に隠蔽し、真剣勝負のイメージを付け、本来、リアルファイトとはまったく無縁のところに猪木が馬場に勝つためにリアルファイトを持ち込んだ、ということになっている。
そういう「歴史観」である。

大筋では間違っていないのだろう。だが、日本の「リアル・ファイト観」には、別の潮流がある。
それは大山倍達であり、極真空手の存在だ。
マンガ「空手バカ一代」は1971年からの連載であり、猪木の「1976年」よりはだいぶ前なので、猪木の後乗りということはありえない(そもそも、「空バカ」の基本プロットはそれ以前の、大山倍達の著作にも出てくるものらしい)。
調べたら、極真の第1回オープントーナメントは1975年開催である。

76年以前の、プロレスと空手の関係については慎重に調べないといけないが、力道山が「空手チョップ」を必殺技にしていたこともあるし、「特別な人しかできない」プロレスとは対照的に、「一般人でも努力と根性があれば習得できる」とされた「フルコンタクトの空手」についても言及しなければ、日本の「リアルファイト」の原風景は見えてこないだろう。

いちおう付けくわえておくと、ボクシングではなく「空手」に注目すべき、と言うのは、大山倍達が極真空手を「地上最強」とし、その魅力の多くを異種格闘技戦のエピソードによってアピールした点による。

・その2
猪木はともかく、たとえば修斗の創設者である佐山聡が「追放」されたからといって、「もはや現在の総合はプロレスとは何の関係もない」と言いきってしまうのは、やはり意図的な歴史の連続性の分断である、と私は見る。

あるいは、ペールワン戦の項を読むと、「パキスタンではスター選手になるまではリアルファイトをする、人気が出てくると筋書きのある試合をする」という描写もあり、パキスタンがプロレスの本場とは言い難いにせよ、やはりリアルファイトとは無縁でないところを、本書はスルーしてしまっている。

本書には猪木の天才性を讃える、あるいはその異常性を考察する、という意図の裏に、プロレスそのものを送葬する、という意図がかいまみえる。
そこには、(おそらく)プロレスに、猪木にかつてのめりこんでいた人が、自らの過去の熱狂を封印するために自分の好きなものを潰してしまおうという、マゾヒズムというかサディズムというか、そういうものが感じられてしまうのだ。
たまに、心霊現象や疑似科学の反対派の人の中に、ビリーバーを叩きつぶすことそのものに快感を感じすぎている人を見かけることがあるが、本書にも同じにおいを感じざるを得ない。

・その3
私が言いたいのは70年代以前の「暴力」の原風景が、人々の間ではどうであったか、それを書くべきだということだ。確かに本書を読むと、76年の四つの試合は「歴史の必然」とは言い難い異常なものである。しかし、猪木が異常なことをやった背景には明らかに観客の目、観客の欲望があったはずだ。
確かにアリ戦は観客無視の試合であったかもしれないが、それにしても、どうもそっちに引っ張られ過ぎという気がする。

戦後すぐから70年代まで、一般の人々も「暴力」にさらされることは現在よりずっと多かったと考えられる。「ごきげんよう」などに出てくるタレントが自分の親の話をするとき、「少年時代、ケンカで負けて帰ってきたら勝つまで家に入れてくれなかった」ということを、だれもが、よく言っていた。
だが、いつの頃からかそんな話をする芸能人はいなくなった。実際にいなくなったのだろうし、人々はそれだけ「暴力」から解放されたのである。
しかし、昔はそうではなかったと思う。

まったくのフィクションだが、「カラテ地獄変」において、柳川組組長をモデルにしたやくざが主人公・大東徹源と親しくなる。そのとき、そのやくざは「ケンカに勝つか負けるかなんて、運次第だろう」というミもフタもないことを言うのだ!
しかしそれはやくざの言動としては真実をついていると思う。技術がどうの、鍛練がどうのと言っても日本刀で後ろから斬られたり拳銃で撃たれたらおしまいである。
そこをあえて突き詰めようとするのは、暴力によって生きていこうとするやくざにとってはむしろマニアックなこだわりに見えてしまう。
そして、その「マニアックなこだわり」を追求したのが、「カラテ地獄変」における「大東カラテ」だというわけである。

猪木の場合も同じで、それまですべてお約束の段取りのある試合のみを行っていたところに、独特のこだわりで「なんでそんなことをするのか」というようなことをやって見せている。しかし猪木がいくら、「普通のリアルファイトとしてのレスリング」をアリ戦以前に系統立ててやっていなかったにしても、「日常の暴力的な雰囲気」にさらされていた可能性はじゅうぶんにあると思う。
日本での「リアルファイト」は、スポーツや芸能の観点よりも「日常の暴力」の延長線上にある、と考えた方が、私個人は流れが見えやすくなると思っている。

そうでなければ、焼け野原の戦後の原風景と現在がつながってこないのだ。もしも本書のようなリアルファイトに対するアプローチの本が今後も出るならば、なされるべきはプロレスといったん切り離した歴史を、柔道やアマレスや、路上のケンカなどとつなぎ直していくことだろう。

そうなって初めて、見えてくるものがあるはずである。

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