【雑記】・「う~ん、困っちゃうよねえ。」
もともと、私の感覚では1970年代の半ばくらいまで、「鑑賞の視点」ということに関し、非常に抑圧的な状況が続いていた、と考えている。
要するに「こうあらねばならない」というふうに、ある程度決まっていたんじゃないかと思う。
むろん、そうではない視点というのもあるにはあった。「パロディ」という点に関して言えば、ほとんどのもの(たとえばモンティ・パイソン的なものやコミケのアニパロ的なものも含めて)、60年代末までに出そろっていたはずだし(ちょっと根拠薄弱だが、G・K・チェスタトンの仕事を観たらまあだいたいそんな感じだったかな、と)。
「鑑賞の視点の変化」とは、すなわち「受け手論」ということになる。受容者は、70年代前半までは基本的には言葉を持たないと規定できた(と思う)。
ところが、70年代終盤からはコミケの拡大にともなう同人誌文化やアングラ雑誌文化などとともに、「受容者の表現」も無視できなくなってきた。
そこをまず確認したい。
それにともなって、70年代末から80年代初頭あたりから日本では「パロディの時代」となった。
マンザイブームは1980年に起こっているし、「ひょうきん族」で行われるコントはかつてドリフなどがやっていた「忍者コント」、「軍隊コント」などある程度元ネタが拡大された「ジャンルパロディ」なのに対し、「忍者ハットリくん」だとか「戦場のメリークリスマス」だとか、元ネタをキッチリ特定できるものになっていった。
(繰り返すが、そうしたものは60年代後半までで世界的にほとんど出揃っていたのではないかと思うが、日本のサブカルチャーでは70年代後半から80年代初頭がアツかった)。
80年代の象徴は、自分にとってはビートたけしである。ビートたけしは、あらゆるものを笑いのめし、既存の作品なども「こんな展開になるわけないじゃねェか」とおちょくった。よくよく考えてみれば、「ベタな表現」にあれだけ敏感だったたけしが、北野武として現在のような映画表現に行ったのは当然のことだったかもしれない。
さて、「あらゆるものをおちょくる」という態度は、「あらゆるもの」が「定番」であって初めて効力を発揮する。
80年代とは、それまで培われてきた何かも、そしてそれを破壊した何かも、「定番」、「ステロタイプ」としておちょくられた。
具体的に言えば60年代以前の権威も、そしてそれを破壊しようとした60年代、70年代的な何かもおちょくりの対象となった。
現状での、無駄なものをいっぱい集めたりクズみたいな作品をいっぱい(ものすごくいっぱい)観て、そこからサムシング(主に「笑い」)を得ようとするタイプのサブカル的態度の源流は、直接的にはこの時代にある。
ところがである。
90年代半ば以降くらいからか、とくにネット上では、そのような「物事を斜めから観る」態度が、ほとんど当たり前になってしまったような感がある。
要するに「ネタ化」ということである。
ある物事がネタ化し、それがまたネタとなる。あるいは、狙ってつくったものが狙いどおりに受けているのに「ネタ」として消費されたことになっている……など、非常に複雑な状況になってしまった。
もう一方では、過剰な「ネタ的解釈」による、本質論の不透明化、である。
要するに、おちょくりが激しくなりすぎて「正当な鑑賞態度」というものが不透明になってしまった部分は、確かにあると思うのだ。
だからこそ、「どのような鑑賞態度を取るかは個別具体的に判断するべき」というふうに以前、書いたのだが、
正直、今の気分では考え方が変わった。
「やっぱり、映画館にいるときはどんなときにもおとなしくしていよう」
と、考え方が変わりました。
皮肉だと取られると困るけど、普通にコメディ映画で笑っているのに「他の観客に、おれはこのギャグがわかるんだぜ、とアピールしている」ように取られたりすることすら、あるんだもんな。
(お笑いのライブや芝居だと、笑い声で演者のテンションが上がることがあるのでおかしかったら笑うようにしていたのだが、映画は演者はいないからその必要もないわ……。)
静かにしていれば何の問題もないから、今度からどんな映画でもそうして観ることにしよう。
ただし、家に帰ってどんな感想を書こうが、自由だとは思う。
それだけは許してほしいね。だって金払って観てるんだから。
後はどのように文章をまとめるかという、「感想文」のクォリティの問題になるのだろう。
たとえば「観たくもない映画を無理に観に行って感想を書く」態度でも、それが年間100本以上になればそれなりの意味も出てくる。
と、私は考える。意味がないと考える人もいるだろうけど。
前述のとおり、現代は「ネタ化」が当然の時代になっている。仕掛ける方も「ネタとして消費してください」と提示している場合もある。
あるいは、逆に「おいおい、現代にここまで無防備なのかよ」と思える作品もある。
無防備すぎる作品を鑑賞して感想を書くときには、やはりそれなりの手腕は必要だろう(最近よくあるテレビ局が大きく関わっている映画とか)。
「ネタ化」というのは本来「王様は裸だ」と言うことだったので、「王様」的なものが極度に少なくなっている現在、何をどう「王様」と解釈するかには議論が巻き起こって当然なのかもしれない。
私はずいぶんトシをとってから「映画」って面白いな(本来の意味で)と思ったクチなのだけれど、最近思うのはやはり最終的には自分は映画鑑賞には向いてないな、と。
けっきょくは集団で観るから、映画鑑賞って集団作業のような気がする。
そういうのは、面倒くさいからもうイヤだ。
ただし、自分は「ネタ化」視点はいまだに有効な部分も「ある」という立場である。現状の流れでは、「ネタ化もいいけど、そろそろ正当な鑑賞方法を再編しようよ」という動きの方が主流だとは思うけどね。
というわけで、これからはいろんなことを心に秘めて生きていくことにします。
あ、でも私は「まったく、何の興味もない映画」をわざわざ観に行くということはない、ということは強調……別にしなくてもいいか。
「矢島美容室」はとんねるずが好きだから観たし、「リアル鬼ごっこ2」も、パート1が好きだから観たしね。
話はすっとぶが、「受容者論」ってたいてい、ものすごくつまんない方向に落ち着くんですよ。
「昔の寄席では客が芸人を育てた」みたいな話とおんなじだよね。明確な主体というものが存在しないから。
でも、自分は考え直した。
これからは能面のような顔で映画を観ることにする。
その代わり、腹の中で何を考えるかは自由、ということで。
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