« 【雑記】・「『観客への悪意』とか、いらないから」 | トップページ | 【映画】・「私の優しくない先輩」 »

・「カラテ地獄変」全7巻 梶原一騎、中城健(2002、道出版)

[amazon]
週刊サンケイ、74~77年連載。
戦後の混乱期、生まれてすぐに公衆便所に捨てられ感化院で育った少年・牙直人。
彼は己を守れるのは己だけ、という荒廃しきった気持ちで周囲を傷つけ続ける。ある日、男子の入る感化院の隣にある女子の棟に、沖縄出身の美少女・火之原奈美が入ってくる。彼女は琉球空手で不良娘どもやサディストの教官を次々に叩きのめし、ついには牙直人にもケンカで勝ってしまう。

「女にケンカで負けた」ショック以上に、奈美を愛してしまったことに気づいた直人は、彼女から空手を習う。
いろいろあって奈美は死に、シャバに出てからも直人は虚無感のどん底に落ちるが、後に巨大空手組織「徹心会」をつくることになるケンカ空手の達人・大東徹源と出会い、その強さと人間的大きさに魅了される。
大東徹源から空手を学んだ直人はますます強くなっていくが、その心は永遠に満たされることがないのであった。

「ボディガード牙」(私は未読)という作品の主人公・牙直人の生い立ちから海外での戦いを経て、ボディガードになるまでを描いた作品。

・その1
梶原一騎は「複雑」だ。だからあんまりテキトーなことは書けない。60年代から80年代初頭までは少年たちのバイブルとなるような作品を描き、1983年に暴力事件を起こしてからは逆にタブー視され出版界から抹殺されたようなかたちになる。
死後、10年近くたった90年代半ばに再評価の機運があり、さらにそこから10年経った現在では作品の連載当時を知らない者も増えはじめた。
「勉強のきらいな子」の読むものであった梶原作品も、その読解のための背景を知ることが困難になりつつあるのである。

とはいえ、同時に梶原一騎に関する正確なデータ、的を射た論考はネット上でちょっと検索すれば出てくることでもある。
以上のような言い訳を書きつつ、私自身は自由に感想を書かせていただきたいと思う。あくまで私自身の「自分史」と照らし合わせた感想なので、客観性は保証しない。

・その2
まず梶原作品、とくに空手を扱ったものがなぜ「複雑」なのか。それは、現実世界での梶原一騎と格闘技界との関係がそこに反映されているからである。
戦後マンガが「なぜ売れたか、どのように売れたか」を評価する際にはテレビや映画との関係を無視できないが、梶原一騎は手塚治虫がアニメに行ったのとは対照的に、実写とのメディアミックスを志向していたようである。
「空手バカ一代」は、それだけでも独立して面白い作品ではあるのだが、やはり「極真空手」のスポークスマン的な役割を果たしていたことは間違いないことでもあるし。

さて、話はすっとぶ。この「カラテ地獄変」、冒頭の牙直人の悲惨な生い立ちから自分の師となる大東徹源に出会ってしばらくくらいまでは、ムチャクチャに面白い。
天涯孤独で虚無的な少年が、感化院で出会った「武道」に唯一の拠り所を見出す、というのは「あしたのジョー」だし、そのコーチが凛とした美少女・火之原奈美であるのは、これまた「ジョー」における白木葉子のような、梶原独特の「聖女幻想」が混入されている。
さらに、火之原奈美が「いつ汚されてしまうのか?」という緊張感で引っ張るやり方は、梶原の「聖女だから汚したい、しかし汚してもなお、聖女であってほしい」というアンビバレントな感覚をストレートに描いていて興味深い。

梶原一騎最大のキーワードのひとつは、「自分がいつ死んでもいいという虚無、ニヒリズム」であると思う。「あしたのジョー」の矢吹ジョー、「愛と誠」の太賀誠、「空手バカ一代」の有明省吾、そして牙直人。いずれも心の中に自分があやすことのできない「虚無」を抱えている。
この心の中を風が吹きぬけていくような虚無感は、たとえば小池一夫作品の中にはないものである。
もちろん、小池作品にも虚無的な人物は多数登場するのだが、梶原キャラの方が「なんかこいつ、真剣にヤバいんじゃないか!?」と思えてくるリアリティがあるのだ。

心に空虚感を持った牙直人が、彼を導いてくれる存在である奈美や大東徹源と出会うまでは本当に面白い。本当に、ページをめくるのももどかしいほどに面白いのだ。それは直人が「空手」という「理」を初めて学び、しかもそれが彼の周囲の世界を変えていくかもしれない、という可能性を秘めたものだったからだろう。
誤解を恐れずに言えば「ヒトが啓蒙されてゆく過程」がスリリングに描かれるのだ(まあ、奈美の死のエピソードはそれどころの話ではないが、このあたりはまだダークな展開が直人の心情とうまくかみ合っていたと思う)。

・その3
たとえば飛雄馬と一徹、ジョーと段平の絆は絶対的なものであろう。そしてそれこそが作品の魅力だったのだが、本作では師の大東徹源は「とてつもなく人間的魅力があるが、何を考えているのかわからない不気味な男」としても描かれている。
徹源の信奉者となった直人は、次第に彼に不信感をつのらせていくが、それでも逆らうことができないことに苦しみと快感を得る。

このあたり、最近は研究が進んでいるのかもしれないが、10年ほど前は連載当時、梶原一騎と大山倍達の関係がうまくいっていなかったからではないか、と推察されていた。

つまり、ちょっと調べただけでは「大東徹源が腹黒いのは、梶原と実の父との関係を表しているのではないか」などと、軽々しく書けないということなのだ。
だがまあ、「空手バカ一代」にしても、途中から「大山倍達伝」から「芦原英幸伝」に変わっていったという事実もあるし、本作においても「空手の技」として手裏剣が登場するが、手裏剣って芦原の技じゃなかったっけ?

とにかく、「やっと大東徹源という信じるべきものを手に入れた」牙直人は、物語中盤から最後まで、「果たして自分の信ずべきは大東徹源でいいのだろうか?」と思い悩むことになる。

物語冒頭、「人間の性、悪なり」というフレーズが頻繁に登場している。あらゆる周囲の悪意によって人間性をはく奪された牙直人は、空手との出会いによって人間性を取り戻す、という展開にしても何らおかしくなかったはずである。というか、そういうふうに最初考えていたんじゃないの?
ところが、「人間の性、悪なり」というフレーズは連載を重ねるごとに出てこなくなり、けっきょく某国の軍事クーデターにまで協力した牙直人は、あらゆる人間の醜さを目の当たりにするという、「地獄一周旅行」みたいな様相を呈してくる。
しかも、その旅行は常に「大東徹源」という男の手のひらの上なのだ。

・その4
私が梶原一騎の半生を詳細に調べずに今、予測できることは、梶原一騎は、本作執筆当時のどこかの時点で「個人の裁量ではどうにもならぬ壁」にぶち当ってしまったのではないか? ということだ。
前述のとおり、梶原一騎の描く破天荒さはいわゆる「反骨精神」とは別種のもののように思える。もっと地に足が付いていて、それでいてもっと実存的なのだ。
そして、「自分の力で自分と他人を支配する」ことに、いつまで経っても確信が得られない。何をどんなに必死にやっても、他人の手柄のようにすら感じる、という心境になったのではないか。

これが雁屋哲だったら「男組」のように、大いなる理想を持った登場人物たちが、自分は倒れてもその理想が受け継がれていけばよい、と考えるように描くだろう。小池一夫も社会悪にはエンターテインメントの範囲で敏感である。

ところが、梶原一騎には究極的には「自分」しかない。彼にとって「理想」なんぞは絵に描いたモチでしかないし、かといって自分が自分をやめることもできない。
理由はわからないが「あしたのジョー」を書いていた頃にはすでに虚無感のかたまりであった彼は、それでも読者の絶大なる支持や巨万の富を得、しかし次の段階でやはりおそろしいまでの虚無感におそわれてしまったのではないか……。

そんなことを想像させる作品である。

|

« 【雑記】・「『観客への悪意』とか、いらないから」 | トップページ | 【映画】・「私の優しくない先輩」 »

アクション」カテゴリの記事

マンガ単行本」カテゴリの記事