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【雑記】・「私の頭の中のオタクVSサブカル」

以下は単なる気分で書き散らしたものです。オチはありません。
読まない方がいいと思います。

“渋谷系”の聖地、「HMV渋谷」が8月中旬で閉店
異論があるかもしれないが、トシを取って真っ先に買わなくなるのはCDではないかと思う。結婚して子供のいるお父さんの小遣い3000円が、一瞬にして飛んでしまうのだ。この金額は映画一本よりも高い。
「アバター」を1800円で観れば、家庭でも職場でも話題にでき、コミュニケーションの手段となるが、自分が若い頃にこだわっていたアーティスト(しかも彼は自分とともにトシを取っている)のニューアルバムなど買っても、孤立するだけである。

CDが売れなくなった理由は他にもいろいろあるだろうけど、それはだれかの分析に任せる。
個人的には「渋谷系」が流行っていた頃には今ひとつのめりこむことができなかった。私より十歳下の世代が、いまだにオザケンへのリスペクトを隠さないことを見ると、そこら辺の温度差は大きいなと感じる。

・その1
今回閉店する渋谷HMVは、個人的には行った記憶があまりない。
いくら思い出そうとしても記憶がない。移転前の98年以前には行っていたような気がするが、そもそも移転したという記憶がない。
90年代後半の自分がどんなCDを買っていたか覚えていない。確かテクノへの熱がじょじょに覚めていた時期ではなかったか? と思って今調べたが、やっぱりそうだった。

「渋谷系」について一生懸命思い出してみるが、「いかにもシンセっぽい音じゃないから」、「バンドだから」という理由だけで聞いても頭に入って来なかった記憶がある。また、「渋谷系」の最も重要な要素であるサンプリング文化の側面は、テクノにもHIPHOPにもあったから思想的な刺激も少なかった。
逆に、「オシャレだから」ということで、伊集院光のラジオ的文脈で「憎い」と思ったこともなかった。少なくとも90年代中盤に、「渋谷系」をとくに音楽に敏感な人でないかぎり、聞くことは少なかったように思う。

・その2
さて、そうやって自分はやや挑発的に、「テクノ」であるとか「クラブ文化」について言及することがある。「ヤマタイカ」のレビューなどはまさにそうで、あるいは10年くらい前は「魔法陣グルグル」も、「作者が打ち込み音楽が好きでDJをやっている」という文脈から語られることは(音楽雑誌以外には)なかったから、わざわざそっち視点でレビューを書いたりした。

なんでそんなことをしているかというと、私と同世代とそれ以上の年代のオタクからすると、クラブ文化は唾棄すべき「オシャレ軍の文化」という印象が強すぎ、スッポリ欠落しているから。
多少自分のような浅学なものがそっち方面に振れた文章をオタク方面に向けて書けば、まだ価値があるように思えたからである。

ところが、これがクラブ文化方面でオタク的な活動をしている人というか、クラブカルチャー内でときおり疎外感を感じるオタクというか、そっち方面へ向けて文章を書くとなるとこれがまた違ってくる。
端的に言って、話が通じそうで通じず、バックボーンとなる文化が同じようでまったく違う。

その違和感は何かと考えると、けっきょくいまだにオタクVSサブカルという対立構造があることに気づく。
オタクVSサブカルと書くと、すぐに誤解する人がいると思うので本当は何千行も文章を書かなくてはならないが、面倒なので省く。

「2005年の電車男ブームにより、オタクは『名誉白人』的扱いによって一般人から認証された。その後のオタクは、『自分たちの居場所をつくるための活動』に関しては大きく動かなくてもよくなった」というのが私の持論だったが、少なくともオタクVSサブカルの対立は、思ったよりも深いように感じる。

・その3
最近思うその最大の違いは、「オシャレであることに降りるか降りないか」なのではないかと思うようになってきた。
「オシャレであろうとすることに降りない」ということは、実は「オシャレである」場合ばかりとはかぎらない。
「自分たちがオシャレでない理由を、オシャレな人たちに向かって説明する意識がある」ことも、「降りない人」のカテゴリーに入ると思っている。

別の言い方をすれば「自分たちは意識してダサいことをやっているんですよ」というエクスキューズの有無、である。

なぜそんなことが必要になってくるかといえば、サブカル方面では「オシャレな人」とときには共闘しなければならない局面が随所にあるからであろう。
サブカルはたとえば「ヴィレッジバンガード的感性」までも、バッサリ切り捨てることができないのだ。
オタク側にとっては、自分たちの好きなジャンルを、ヴィレッジバンガードが扱うことはやぶさかではないが、いちいちエクスキューズしなければならないほどに顔色をうかがっているわけではない。

・その4
室井佑月が、まさに「電車男」ブームのときに、週刊誌のコラムか何かで「オタクを認めるなんてとんでもない。心底腹が立つ」というようなことを書いていたのは、決め打ちしてしまうが「おまえら、なんで世間一般の常識に合わせないんだ。合わせずとも、合わせるようなそぶりを見せないんだ。それがねたましい」というふうに言いたかったのだろうと思う。
で、ここではそれを「『世間』と『個』のすり合わせ」などという結論には持って行かない。
室井佑月がオタクを憎く思う深いところには、「世間に合わせないとセックスできず、セックスできないことを不満に思う人間がいるなんて信じられない」という気持ちがあるはず。

しかし、「ダサいオタク同士でセックスしてるかもしれない」ということは、サブカル側は決して認めたがらない(笑)。

さくらももこは非常に優れたマンガ家だと思うが、「いい気になってるなー」と思ったのは、何かのエッセイ集で、結婚相談所の広告を見て、そこで結婚した、というテイのカップルをとことんバカにしきっていたことである。
ちょっと今現物が手元にないので思い出して書くが、
「こんなダサいところで知り合ったダサいカップルの女は、きっとセックスするときあえぎ声までダサい」
みたいなことまで書いていて、ちょっと驚いた。大きなお世話だろ(笑)。

林真理子もそうだが、すごろくの「上がり」に人生が到達してしまった人は、自分がいたかもしれない領域にこうまでキツくあたるのか、と思ってしまった。

誤解されると困るが、女性ばかりではなく男性でもこういう人はいる。
自分が苦労して、自分の心の中の何かまで切り捨ててある程度「上がり」に到達した(あるいは到達したと自分で思っている)ので、他人が自分と同じ苦労や心の切り捨て方をしないと認められない、と言うタイプの人たちだ。

サブカルはいまだに「サブ」で、その理由は「世間」を常に評価軸の中心に持っていないと発言を打ちだすことができないからだろう。
じゃあオタクがいいかというとそういうふうにも自分は思っていなくて、オタクの価値基準の打ち出しは「世間」というより、自分の半径5メートル以内くらいのオタクコミュニティにすぎない場合も多い。

とにかく、「世間一般」の「センスの平均値」より下の人たちと「世間一般センス」との間に立って、仲介マージンを取るみたいなマネは……私は一時期は必要だったが、今はもういらないんじゃないかと思う。

それと、「ありもしない敵」、「どこで聞いてきたかわからない価値観」を仮想敵にするというのも、巧妙な手段とも言える。

まあかといって、何度も書いているが「非モテ」とか言ってるのは何なの、どうしようもないな、とも思うのだがね。

「真にダサい」ってのがどういうことかは、ヒマだったら書いてもいい。「日本を下品のどん底に落とす」ことはラディカルだが、「日本を真にダサい空間に落とし込む」ことは反革命的行為である。
なぜなら、すべてのファッションが無意味になるからだ。

究極的にはホームレス同士でセックスできれば、おしゃれも、おしゃれを相対化する者も、おしゃれを相対化する者を相対化する者も、すべて一掃できる。
「やつら」はセックスを第一義と考えているからだ。

「やつら」って言い方自体が、「ありもしない仮想敵」をねつ造しているのかもしれない、とこのテキストを読んだ人はまず疑ってください。

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