【雑記】・「告白」感想・追記
監督・脚本:中島哲也。
ある評論家が、評論の際に「映画を好き嫌いで語ってはいけない」と言っていたので迷ったが、まあ私は評論家ではないのでいいとさせてください。
また「テーマの良しあしについても慎重に」ということだったが、やはりこの映画に関しては私はテーマというか「描きたいこと」に関して批判せざるを得ないので、そうすることにする。
盛大にネタばれすると思うので、そのつもりで。
繰り返すが原作は読んでいないので、あくまで「監督・脚本を手がけた人の作品」として論じることにする。
・その1
本作に横溢するのは思春期のわがままさ、残酷さに対する嫌悪感だろう。
松たか子演じる森口は、原作ではどうだか知らないが、本作においては「娘を殺した犯人A、B」以外の、関係ない生徒たちにも尋常ならざる嫌悪感を持っている。
それは、彼女に助けを求めたある生徒が「死にたい」とメールを出したことをクラスのみんなの前でバラしてしまったり、みずほと喫茶店で話しているシーンで「エイズの知識もなく右往左往するおまえらはバカだ」みたいなことを言っていたりすることからもわかる。
むろん、思春期のわがままさが何の罪もない教師の娘を殺していいということにはならないが(もちろん酒鬼薔薇事件のように)、この映画で丹念に描かれる思春期特有のわがままさと、いわゆる酒鬼薔薇的な(イメージとしての)狂気とは本当に同一のものだろうか? という疑問が残る。
本当に理不尽な犯罪を犯すものが、これほどまでに比較的理解可能な思考をするだろうか?
・その2
まあそんなことはここではどうでもいい。
本作では森口という教師は、娘を殺される以前から、おそらく中学生というものにウンザリしていたのではないか、いうことを確認できればいい。
そして映画のラストでは、「究極の更生法」としてある残酷な手段が使われる。だから、最後のところで森口は教師の限界性を突破し、「更生をうながした」とも読み取れるのだ。
前述のとおり、森口は娘が殺される前から中学生の残酷性にうんざりしきっており、その「残酷性」を利用して犯人A、Bを追い込もうとしたのは明白である。
というか、ここでは観客が「森口が、究極的に残酷な行為によって生徒を更生させようとしていたのではないか」とも考えうる、ということを確認したい。
・その3
さて、それでは「そのように受け取れる」ということに関して批判したい。
まず第一に、本作で描かれる「中学生の残酷さ」は、「教室」という人工的な「密室」によって醸成されている、ということに注目したい。
携帯メールの描写やニコニコ笑って実は相手を追い込むなどの、中学生特有の残虐さがこれでもかと描かれるのだが、まずそういう閉鎖空間をつくったのは大人たちである。
逃げ場のない閉鎖空間では大人同士でもイジメが発生することは、軍隊などでも証明済みなのではないか?
それは「中学生特有の残酷さ」ではないのではないか?
第二に、現行の学校教育というのは基本的にヴァーチャルであることを前提とする教育制度である。
学校で行われることは、すべてシミュレーションでなければならない、というのが建前だと私は思っている。
なぜなら、「全員の人権をある程度保障して、卒業させる」ということが前提だからである。
ここに、ヴァーチャルではないもの……たとえば暴力や死、といったものを持ち込めば、「荒れる中学」であるとか「学究崩壊」であるとかがマシになるだろうということは、私でもわかる。
定期的に論議の的になる、「日本は徴兵制がなくなったから若者が自堕落になった」とか「若者を教育するために軍隊の復活を」という、国防と教育を故意に混乱させる言説がまかりとおるのも、「暴力と死の教育効果」を、提言する人がわかっているからである。
(ここで確認したいのは、「軍隊的な学校」と、「軍隊」とは違う、ということである。後者では「死」が地続きになっているからだ。)
しかし、いったん「暴力と死」を教育現場に持ち込んでしまうと、それは「生存競争の場」であって、「平等に教育する」という建前は霧消してしまう。
・その4
森口がシュウヤを「更生させよう」と思って暴力と死を持ち込んだのだとすれば、それは論理的には、殺された娘が成長して学校に行ったとしても、同じように直面する問題であるはずである。
そして、森口のやっていること……「手を汚さず相手を破滅させる」ということは、最終的には己の欲望のためだけに女の子を殺した、そして無差別殺人を目論んだ中学生たちとまったく同じことのはずなのだ。
本作は、その観点がまったく抜け落ちていた。
「教育に暴力と死を持ち込む」というのは、はっきり言えば「教育の場を文字どおりの生き残りゲームの場に変える」ということである。
このことは、フィクションの世界でもいくつかシミュレーションとして試みられている。
しかし、実際には絵に描いた餅だろう。入学したときには100人だったが、卒業するときにはけが人と死者を覗いて40人になっていました、というのはいかにもリアリティがないからである。
確かに、学校教育が「人権」というルールに基づいたゲームだとわかってしまった以上、子供たちがどこまでもつけ上がることは明白ではある。
しかし、だからといってそこに「暴力と死」を、教師側から持ち込んでしまう資格が、果たして教師にあるのだろうか?
これは簡単には解けない問題であり、「あえて暴力を持ち込む」というシミュレーションは、我々はすでに三千年以上前に通過しているということは、確認しておこう。
・その5
確かに、「暴力」を教師側に「仕掛けた」のは犯人AとBである。このために彼らは、より巧妙な暴力によって復讐される。
しかし、次に回ってくる順番は、もう一度教師側が「暴力」の報復にさらされることなのではないか?
そうなったら、もうメチャクチャである。教育もへったくれもない。むき出しの人間同士の、殺し合いだ。
なぜこの映画はそうならないか?
それは、私は時代の病だと思う。
いわゆる「閉鎖された学校もの」でいつも疑問に思うのだが、なぜ、昭和四十年代あたりまでは普通に行われていた「ケンカ」が、普通に起こらないのだろう?
なぜ陰険な裏サイトだのイジメだのが通用するかと言えば、やられる側が暴力を使わないからに決まっているではないか。
実際、本作では「エイズの血」という「暴力」によって、イジメはおさまったのだ(しかしここも、スマートで気に食わない。なぜげんこつでぶん殴ってやらなかったんだ? げんこつでぶん殴っても、イジメはおさまっただろうに)。
また、前のエントリでも書いたが「殺人と自殺」がきわめて曖昧に描かれているのも不満である。
人間が殺す側に回るか、自殺に回るかは当人の大きな選択のはずなのに、そこがおそらく意図的にはく奪されているのである。
確かに、実際の人間関係で暴力も含めて凄みをきかせることはむずかしい。しかし、なぜフィクションの世界でまで、そんなくだらないルールを守ろうとするんだ?
世界がすべて、体育館の裏や、会社の給湯室や、学校裏サイトになってしまっているんじゃないか?
そういう意味では物語終盤から、非常にイライラさせる映画だった。それはもしかしたら監督が悪いのではなく、「こうしたらリアリティが出るだろう」という、観客側の「リアル」の問題に帰結するのではないか。
なお、本作が「高校生」でもほぼ通用するプロットでありながら「中学生」になっているところも気になる。これは中学生の方がより閉鎖的な世界に住んでいるため、「親子」とか「教室」といった非常にせまい人間関係を重視するという設定上の詐術ですらないかと、私は思ってしまう。
大人たちの役割は子供たちに「世界は広い」と教えてやることであり、「世界の狭さ」を利用して子供(本作はR15だから16歳以上だが)を翻弄することではない。
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