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【映画】・「告白」

監督・脚本:中島哲也

中学教師・森口悠子(松たか子)が、自分の幼い娘を殺した二人の生徒に対し、復讐を開始する。

まず、私は原作は読んでません。
その上での感想。

「映像」としてはある段階までよくできていると思うが、映画全体の評価としては私は積極的に低い。
以下、かなり大っぴらにネタばれあり。

・その1
まず、冒頭の森口悠子の「告白」から牛乳パックの件あたりまでは面白かった。
次に、そうした森口の「復讐」が、彼女が学校を去った後、意外な展開を見せるところも「お、これはもしかしたら傑作かも……」とも思わせた。
しかし、その後が個人的にはかなりダメだと思った。

まず、オトナの松たか子と中学一年生が知恵比べをしたら、そりゃ松が勝つでしょ(笑)ということ。

それと、シュウヤとナオキは、なぜ「復讐」を受けた後、森口悠子をブチ殺そうとしなかったのか?

そこがいちばん引っかかるんですよ。

確かに、シュウヤとナオキが森口の娘を殺害しようと思ったときには、「森口」という存在も、その娘も人間として観ていなかった。自分の目的を達成する「道具」としてしか観ていなかった。

しかし、森口の「復讐」を通して、彼女の「悪意」はシュウヤとナオキには明確に「認識」されたわけであり、もともとヘタレとして描かれていたナオキはともかく、シュウヤが森口を「動機なき殺人」のターゲットにしない理由はどこにもない。
ところが、シュウヤはまるで森口などいなかったかのように、その後も行動し続ける。
これはプロットとしてかなりおかしいことのように思う。

次に、森口が学校を去った後も、実は彼女の復讐は続いていた、ということが明らかになるのだけれども、その復讐も、なんか頭よさげでいて本当はちょっとおかしいんだよね。

まず、クラスの生徒全員に「口止め」のメールを出すんだが、普通だったら耐えきれずにぜったいだれかがしゃべっちゃうよなあ。
結束力のない、バラバラのクラスのように描かれているからなおさらそう思う(イジメを結束して行っているような描写もあるが、それは集団ヒステリーであってクラス全体がまとまっているわけではない)。

もう一つは、シュウヤの動向を森口が探り続けているのなら、彼がイジメなどまったく意に介さない、それどころか自らの「死」もまったく問題にしていないことには早い段階から気づいたはず。
ところが、クライマックスの森口の復讐の「成就」は、たまたま出会ったシュウヤのガールフレンドからもたらされた情報によるもの、ということになってしまっている。
それは「ただの偶然」と言います。

以上が、プロットそのものについておかしいと思った点。

・その2
次に、ここが重要なのだがテーマそのものが何だったのか、ということについて。

本作を途中まで観た感覚としては、「それぞれの思惑が錯綜して、憎しみの『ズレた連鎖』として悲劇が生まれる」ということだと思っていた。
それは、最後に携帯で森口がシュウヤに言う、「なぜ関係ない人間を巻き込むのか?」というセリフにも表れている。そこを監督が意識していることは間違いない。

ところが、最終的にすべて、シュウヤもナオキも森口がコントロールしていた、というふうな結末になっている。
これでは、さんざん事件にまつわるそれぞれの「告白」を描いても、最後には「幼い子供を殺したことがいちばん罪が重いですね」という因果応報モノにすぎないことになってしまう。
本当にそのことが描きたかったのか? わからん。

で、最後まで観て、このプロットは「もしかして、少年法をかいくぐって、自分の手を汚さずに少年に復讐するにはどうしたらいいか?」という命題に回答を与えるだけの、パズルの一種にすぎないのではないかという疑惑が浮上してくる。

・その3
テーマそのものが何だったのか、ということについて、その2。

やはりシュウヤの行動は、どこかおかしいと思うわけだ私は。
繰り返しになるが、自分が森口から明確な「悪意」を向けられた、そのことに対する心理描写がほとんどない。
自分が死にたかったということと、自分に悪意を持っている人間がいる、ということはまったく別のことである。
シュウヤのような、「自分が一番」と思っている少年こそ、やはり次に殺すのは森口悠子であるべきだろう。

たまたま、シュウヤの弱点が母親だったというのも、ちょっと弱い気がする。あれくらいアブない少年なら、「注目されないのなら母親自身を殺してしまおう!」と思っても何ら不思議ではない。
本作では「愛するがゆえに殺す」という心性は、ないものになっている。
(シュウヤがガールフレンドを撲殺したのも、単に彼女に愛情を感じられなくなったから、というだけの理由である。)

そもそもが、本作では「殺す」のと「自殺する」のとの差が明確ではないのだ。
ナオキの母親だってそうだ。無理心中をはかる前に、なぜ森口や、少なくともウェルテルを殺そうとしなかったのか?
はなはだギモンである。

ここで、私が私自身の考えていることを言う。
本作は「教室という閉鎖された空間内での残酷な人間関係」を突き放した目でみる、という点において、一連の「バトルロワイヤルもの」とでも言うべきバトルものの変奏である。それは前半の、クラス内でほとんど狂気の領域にまで行くイジメ描写を見れば明らかだろう。
いや、明らかじゃないか。もう少し詳しく説明すると、「バトロワもの」は人間関係の立ち回りと自分の状況をよくすることしか考えないもの、と私は認識している。原因にはあまり目を向けない。その一点において、である。

これが、「何か不幸な偶然が重なったことによるイジメ」なら、まだ描く価値はあると思う。だが、このイジメには森口という黒幕がいるわけである。

だったらなぜ、シュウヤもナオキも森口と戦わないのか?

そこが根本的に引っかかるところだ。
確かに、物語の前半部分、「教室の閉鎖性」がこれでもかと悪意で描かれる、そこはまあよくできていると言えばできている。しかし、そんなものは卒業してしまえば雲散霧消してしまう関係性でしかない。
よく「学校、教室という閉鎖性」をことさらに訴えるべき大問題、として描く作品に行きあたるが、なに、イヤなら転校すればいいだけの話だ。

私個人は「教室」というのはたまたま、日本の学校教育のさまざまな要因によって結実した「特殊な社会」であると思っている。
もちろん一般社会との関連性や普遍性も持ちえてはいるものの、「閉鎖された教室という恐さ」に関しては、「そりゃ、あんなふうに閉じ込められれば異常にもなるわなァ」という感想しか抱けない。
しかも本作はR15である。「閉鎖された教室」でいちばん苦しんでいる中学生は、この映画は観られないのだ。
高校生は観ることができるが……高校生がこの映画を観ても、「キツいお説教映画だなあ」という感想しか抱けないのではないか。

・その4
そして、最後にいかにも「因果応報」のようなカタチで終わるが、シュウヤが少年法によって守られることはどっちにしろ間違いはない。
その次に考えられるのは、自由の身になったシュウヤが(やはり)森口を殺すことだろう。
そこでこそ「憎しみのズレた、ズレているがゆえに不快きわまりない連鎖」は完結する、と私は思う。
いや、あるいはシュウヤが、精神的に立ち直った森口が、新たに愛し始めただれかを殺したっていいわけだ。

北野武の映画「アウトレイジ」も、「ズレた憎しみの連鎖」を描きそうでいて、最終的には「やくざ間の下剋上」というテーマにおさまってしまっていた。本作もまったく同じことが言える。

現実の無差別殺人が、「敵」を見失ったことから起こるということは明白だろう。だったら映画では本当の「敵」がだれかを示すべきではないのか?
出所(?)したシュウヤは森口を殺し、そして森口すらもまた、本当の「敵」ではなかったことを知るべきだ。

そこまで描かれなければ、昨今の私は満足できないのである。

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