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【雑記】・「ガクセイウンドウ問題」

安保闘争50年、樺美智子さん命日に献花 50人参列

こういう記事があったので、いよいよ(?)、私がほとんど言及してこなかった、60~70年代の学生運動について、思うところを書く。

・その1
個人的体験としては、周囲に学生運動をやったことのある人間など一人もいなかったので、私と同世代より少し上の人たちが感じていたという、「全共闘世代のうっとおしさ」を肌で感じたことは一度もない(樺美智子さんが亡くなったのは安保闘争のさなかで、全共闘運動はもう少し後だが、私が安保のことをよく知らないので以下はすべて全共闘についての話とする)。

昔の職場の上司が、少々左巻きな思想の持ち主だったが、彼が現在生きていれば57歳で、安保闘争とか全共闘とかの世代よりも少し下である。彼も実際の運動を観てきたわけではない。

それよりも書物などで知ったのは、全共闘世代よりもすぐ下の世代が羨望と嫌悪の入り混じった感情で全共闘世代の批判を続けていたことで、要は孫引きというかたちでしか、私は「そういう人たち」の心性を知らないのである。

だから、別に心底ウザいとか憎いとか(逆にすばらしいとか)思ったことはない。

さて、当ブログはよく手前勝手なオタク・サブカル論を書いているが、とくにオタク論に関しては一見、学生運動など何の関係もないと思うだろう。

ところがどっこい、そうは問屋がおろさない。
というのは、オタクムーヴメントというのは全共闘世代や安保世代に対する反発を内包しているというか、どれほど明確に意識していたかはともかく思想的には、ネガポジを逆転させたようなものなのであった。

別の言い方をすれば、オタクに関してそのすぐ上の世代と比較すれば、いろいろなものが見えてくることが非常に多いのである。
一説によれば、コミケの基本コンセプトや行列さばきなどは、全共闘運動から引きうつされた部分が多いとも聞く。オタクの世代間ギャップが言われてひさしいが、それにともなって安保闘争や全共闘運動に関しても、ますます人々の知識が薄くなっていることを、自分は懸念している。
それは、何度も繰り返し書いているように、歴史の断絶を意味するからだ。

・その2
それで非常によく言われるのが、以下のような批判である。

・全共闘世代は、革命なんか起こす気がなくただ騒ぎたかっただけ
・卒業すると同時に企業に就職するなど、すぐに変節して思想的に脆弱
・大人になってからも何でも運動にあてはめてうっとおしい(大人になりきれていない)

で、最近私が考えている仮説(勉強不足なので仮説)は、

・全共闘運動は、非常に情動的な運動で、思想や理論の欠陥をあげつらってもあまり意味がない
・情動的な運動なので、政権奪取の方法論が間違っていたとかあげつらってもあまり意味がない
・というか、そもそも革命を起こして政府を打倒して政権を奪取する気があったのかどうか疑問である
・本人たちも、何であそこまで暴れたのか意味がよくわかっていないのではないか?(分析もきちんとしてこなかったのではないか)

……というような点だろうか。
よく言われる「学生時代は暴れたものの、きちんと就職していったから『変節』だ」という批判に関しては、確か呉智英が論壇誌に「日常から物事を変えていこうというのが全共闘的思想なので、普通に就職しても何も矛盾はない」と書いていた。
それを読んだときは(けっこう最近だ)私も「ええーっ」となった。「そんなんあり!?」と。
もっとも、呉智英やそのフォロワーの思想家・批評家たちは、80年代に「日常のサマツなところから物事を変えていこう」という考え方になったのは確かだ。
しかし、それが「運動がうまくいかなかったからそう考え直した」のか、「運動そのものにそういう思想が内包されていた」のかに関しては、私も勉強不足でよくわからない。

また、佐藤健志の「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」という本がある(92年発行)。
この中で、佐藤は「全共闘運動とは、『権力的ではない政府』を成立させようとしたのではないか」と書いていた記憶がある。
全共闘は権力を持つことを嫌い、「権力的ではない政府」をつくろうとした。しかし、そもそもそんなものは成立しえない、という批判だったはずだ。
私は別に学生運動の本を読みまくったわけではないので似たような指摘をしている人は他にもいるのかもしれないが、「権力的ではない政府の構築」という、パラドキシカルなことを推し進めようとしていたということは、ありうると思う。それは「全共闘運動は客観的に観て、政権を奪取するという明確なプランを持っていなかった」という批判と矛盾しないからだ。

・その3
しかし「権力的な政府を成立させる」という、まず実現不可能なことをやろうとした、ということは、全共闘運動が非常に情動的な側面を持っていた可能性を示唆するものである。
簡単に言えば、パンクのミュージシャンがステージでニワトリの血をまいたり豚の臓物をばらまいたり、といった行為が「政治運動」としての体裁を保ったもの……だったのではないかということは、まず思う。

だが一方で、呉智英のように「日常のことを一つひとつ変えていく」ということを主張する人もいる。どうしても「パンク的側面」と、「小さなことからコツコツと」といった考えは矛盾するのだが、呉智英が「全共闘世代的なもの」を抱えながら、ともすれば保守化の思想家に非常に近いことを言う存在であることは著作を読めば明確で、この辺の矛盾の整理は自分の今後の課題である。

なお、全共闘世代が就職してからもいわゆる「万年青年」と揶揄されがちな青臭さを持ち、職場でもうざがられていたらしいということは私も小耳にはさむところだが、運動が政治的な達成を目的とせず、あらゆる規制の権威に「ノー」を突き付けることが目的だとすれば、おのずと「定形化した大人」に批判が向かっても当然ではあると思う。

いやそれより何より、オタクだって真っ先に「それまでのいわゆる『大人』」になることは拒否したのだから、少なくともオタクが全共闘世代をその観点から嗤うことはできないのではないか。

「マルクス主義がそもそも最初のセカイ系」などとうがった見方をする人がいるが、彼は幸福だと思う。何も「考え方」の拠り所なくして生きていける人だからだ(ちなみに私はマルクス主義者ではありません。っていうか、共産党宣言も資本論も読んだことがない)。

・その4
とにかく、別に擁護する気も毛頭ないが、全共闘運動、安保闘争に関してはそろそろ紋切り型の批判を調べもせずにやるべきではないと思うのだ。
少なくとも「幼稚である」ということで言えば、まともなオトナから見れば全共闘運動もオタクも、同じ穴のムジナなのだからね。

パンクスが(まあそういうパンクス観も固定観念なのだろうが)ニワトリの血をまくことの意味を、論理的に証明しようったって、それは意味がないはず。
それと同じものを、自分は昔の学生運動に感じますけどね。

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