« 【雑記】・「アメリカでアニソンイベントを開催した男」 | トップページ | ・「いちご100%」(4)~(6) 河下水希(2003、集英社) »

・「大市民」(1)~(7)(この後もまだ続くよ) 柳沢きみお(1992~1995、双葉社)

[amazon]
小説家の山形鐘一郎が、日々うまいものを食ったり、ビールやワインを飲んだり、時に時事ネタや自分の人生哲学についてエッセイ風に言及してみたりする作品。その根底にあるのは「人生を楽しむ」という姿勢にある。

微妙にタイトルを変えながら続いている、人気シリーズである。

私はこの頃のこの作品は、わりと好きだ。おそらく山形の思想・行動原理は作者と限りなく同じだと思われるが、そこをあえて実録風にせず、フィクション性をまぶしてあるのが奥ゆかしいというか、「自分自身」を強く打ち出してキャラクター化した小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」と好対照をなしていると言える。

で、「わりと好き」ということを前提に、7巻まで読んだ時点で、ヤボを承知で本作に関して疑問を提示してみたい。

・その1 大衆問題
まず主人公・山形の基本姿勢として「大衆批判」がある。「大衆に背を向けることがダンディズムだ」とも言っている。
しかし、他の作家の作品にも当てはまるが、「大衆批判が大衆のための流通経路から流布される」という矛盾を、本質的に持ってしまっている。
山形の書いている小説のジャンルは不明だが、部数を競う作家仲間がいるので純文学作品ではあるまい。まあ小説の場合は固定ファンを掴んで、その人たちらが「大衆ではない」と言いきることもできるが……。
とにかく「大衆のためにつくられたものに、『大衆的だ』と文句をつける」という矛盾が、徹頭徹尾存在してしまっている(本作でも多少、そのこと自体に言及されているが)。

・その2 倫理問題
90年代当時の若者のマナーの悪さについても繰り返し言及されているが、なぜか不倫に関してだけは柳沢きみおはものすごく寛容なんだよな~(山形も、四人の妻がいる、という設定)。
どうしてそうなのかはいまだによくわからんのだけど、山形がよく言う「古きよき日本」には不倫文化なんてなかったんじゃないの?

そして、私個人は、山形の「今の中年は中身は子供」という批判は、山形そのものに当てはまっているのではないかと思うのだ。ま、それがこのキャラクターの魅力なんだけどね。

・その3 環境問題
山形は、文明論もときおり展開する。西欧型の進歩主義はやめて、日本人は植物のように生きよう、というのが主旨だが、そんな悠長なことを言っていたら現在の山形が享受している生活はないだろう。
その矛盾の最大の発露が、彼のクラシック・カーに対する執着だ。環境に配慮するなら、まずクルマからやるべきではないのかな。でもそれが本作の魅力にもなっているんだけどね以下略。
面白かったのは、山形の住むアパートの部屋から見える桜の木が切り落とされそうだからやめてくれ、と頼みに行くエピソード。「あなたの住んでいるアパートが建てられる前にも、桜の木が立っていたんだよ」と指摘されて山形はグウの音も出なくなってしまう。
山形の環境破壊批判には本質的にこの矛盾がある。が、それをそのまま書いてしまうのは作者の計算なのか、天然なのか、面白い話だった。

・その4 女性批判
山形はジュリアナ東京やギャル文化が大っきらいで、「昔の奥ゆかしい女性らしさはどこへ行ってしまったのか」と嘆く。
あのさあ、いいか悪いかは別にしてかつての「女性の奥ゆかしさ」は「貞操観念」とセットになっていたんじゃないの? と思うけどね。
しかし、そこで「今のオンナが悪い」とならないのが凡百のオッサンエッセイとは違うところ。山形は「女性が西洋化、なおかつ魅力的ではなくなったのは日本の男がダメになったから」とつなぐ。
ところが、男性中心社会が女性を抑圧した、という感覚はなぜか皆無なんだよね。他の柳沢作品にはうっすらそういう視点が見えるんだけどなあ。

実は90年代当時の山形の社会に対する不満の大半は、私個人は抑圧された個人、あるいは抑圧された女性の不満の爆発によるものと思っている。よくも悪くも。「社会の被抑圧性」への言及もときおりあるんだけど、決して問題の本質には行きつかないんだよね。
で、私はその理由は、山形(あるいは作者)自身が、過酷な生存競争を勝ち抜いてきた自由業者で、そこのところを(本作に限っては)うまく隠しているからじゃないかと思うんだよね。

・まとめ
最近気になっているのが、「一見ムチャクチャなんだけど、『その人が言っているから』という理由で許されている物言い」について。
だれだって、環境は破壊するべきじゃないけど科学技術を謳歌したいときもある。浮気もしたいが女性の貞淑さに惚れるときもある。そりゃそういう矛盾があってこその人間で、だからこそ「一見ムチャクチャなんだけど、『その人が言っているから』という理由で許されている物言い」が許されているんだろう。

だが、それは思索の上で物事を進歩させることはおそらくぜったいにない。
だからこそ、「一見ムチャクチャなんだけど、『その人が言っているから』という理由で許されている物言い」は、「軽妙洒脱なエッセイ」とか「歯に衣着せぬ毒舌」などと言われて苦笑まじりで受け入れられているのであり、人々はその暴論にうなずいたり「それは違うんじゃないか」と思いながら、日々の生活に追われて忘れ去っていく。

「大市民」という作品は、完全に「そういう作品」としての地位を確立しているので、前述のとおりその内容に疑問を抱くこと自体が「ヤボ」と言えるものだ。
が、別の人の別の似たような作品で、「もしかして、これって読者に本気で受け取られてるんじゃないのか?」と思えるようなものがあるような気がしてきたので、あえて感想を書いてみた。

私個人はどんなレトリックで覆われようが、暴論は暴論だということを、どこかで言わなきゃいけない時期に来ているんじゃないかと思っているんだよね。

|

« 【雑記】・「アメリカでアニソンイベントを開催した男」 | トップページ | ・「いちご100%」(4)~(6) 河下水希(2003、集英社) »

マンガ単行本」カテゴリの記事

社会全般」カテゴリの記事