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【雑記】・「年度初めなので、また立ち位置を確認しよう」

最近考えるのは80年代後半から96年頃までの約7年間のことで、自分にとってはあそこが分岐点だったな、と思う。
繰り返し書いていることだが、時間が経つごとに現在から見る過去も変質していく。
だから、同じ(ような)ことをまた書くことにする。

・その1
80年代後半、自分にとって傾聴に値する言論人、論壇人というのが当時何人かいた。面倒くさいので名前はあげないが、その人たちは現在、驚くべきことに私より下の世代にはほとんど名前も知られていないし、何のリスペクトもされていない。
プロレス的な「論争などへの言及」を意図的に避けていってしまった人もいて、当時はそれもまあひとつの道か、と思っていたがあまりにさっぱり忘れ去られてしまっているので、やはりもうちょっと何とかした方がよかったと思う。

さて、そこで展開されていたのは「どうしたら大人になれるか」という話だった(これを「大人になれ論」とする)。当時彼らは三十代半ばで、時代背景としては「ミヤザキ事件」の直後だった。
「ミヤザキ事件」が起こるまでは、私の印象としてはオタク文化は「なんだかわからないまま突き進んできた」という印象があった。ミヤザキ事件の直前にはコミケにおける聖矢&キャプ翼の一大ブームがあり、たとえば2000年以降のアキバブームなどと比べて規模は小さかったものの、当時はオタク文化が「爆発的」というにふさわしい広がり方をしていた。

ま、そんな流れに冷や水をぶっかけたのがミヤザキ事件で、そこで「オタクの倫理観」について当時大学生だった自分は真剣に考えたが、答えが出なかった(この頃、何らかの答えを出せる思考力と決断力があれば、自分はもうちょっとはマシなことが書ける人間になっていただろう。まあ、才能の問題である)。

「オタクの倫理観」については、そのまま現状の「非実在青少年・規制」問題の背景にあるもの、に直結する。
「非実在青少年」をめぐってもっとも問題になるのは、「頭の中で考えている決して倫理的ではないことを、フィクションとして表現してよいのか」という、人間の生への根本的な問いかけであるように思う。
私自身は「表現してよい」という立場だが、ソレが「表現されて流通されている」ことそのものが、達成されるべき人々の倫理観の向上が達成されていない、と感じる人も出てくるわけである。それが規制賛成派の、意識するしないに関わらずの考え方である。

だから、規制問題に関して重要なのは「倫理」と「法律」を分けて考えるということだ。逆に言えば、果たして法律は「妄想」をも規定しうるのかという話になる。

・その2
話が「現在」にそれた。
思えば、私が学生時代に「オタクの倫理観」について考察したあげく、沈黙してしまったのはやはり、「フィクションとして表現」することそのものは、法的に規制されることはおろか、「こんなことを表現するのは倫理的ではないからやめよう」というような検討さえナンセンスに思えたからだろう、と今にしては思う。
つまり、「オタク」をライフスタイルと考えた場合、そこにある倫理観というのは一般人のそれとほとんど同義となる。当たり前だが人のものを盗んじゃいけないとか、幼女にイタズラしちゃいけないとか。当たり前のことだ。

ただし、当時のミヤザキを「同世代の幼児性の象徴」ととらえた言論人は少なくなかった。実際には、ミヤザキの半生を追っていくとさまざまな特殊事情があり、果たして彼が「本当にオタクの負の象徴たりえるのか?」という疑問が時間が経てば経つほどわいてくるのだが、とにかく80年代後半には「ミヤザキ、オタク、幼児性、大人になれない、成熟拒否」といった流れで若者を批判することが、もっとも説得力があるように思われた。

それは、当時私自身が学生から就職して社会人になる過程であったということが大きい。早く「大人」にならなければならないと思い、私は焦った。
そして結論を言えば、あまり成功したとは言えなかった。

・その3
当時の「大人になれ論」というのは、たとえば「ゴーマニズム宣言」などにも当時の論壇人の考えとの相似形として展開されている。それは、80年代後半から90年代初めという時代背景からするとかなりグウの音も出ない「正論」だった。
なぜなら、それまでイケイケで来ていた「オタク文化」そのものがある種の幼児性をはらんでいたことは自明のように思われたし(余談。ガイナックスの偉い人のインタビューでは、「卒業したら果たして食っていけるかの不安でいっぱいだった」と言っており、少なくとも大阪芸大界隈のオタクコミュニティでは最初から「自分の好きなことをメシの種にする」と決意していたのがオタク第一世代であったようなので、このあたりの認識は異なる)、80年代は現在の引きこもりとかニートのひな形みたいな存在がそろそろ現れても来る頃だった。

また一方で、70年代的な、「大人は信じるな」的なアナーキーさを唱える人たち(の一部)の欺瞞性が80年代に見えてきてしまったというのもある。
70年代的なアナーキズムへの問い直しが80年代に出てきてしまったから、他の人がどう考えていたかは知らないが、70年代的アナーキーさ、80年代的オタク文化の反省と今後の展望を示す考えとして「大人になる」ということが問い直されたということは言える。
70年代と80年代の欺瞞性を指摘されたら、当時それらの文化にどっぷり浸かっていた私としては有効に反論することはできなかった。

で、「それで大人になれました。ありがとうございます!」といったハッピーエンドには、ならなかった。

・その4
襲ってきたのは強烈な虚しさだった。

そもそも、当時三十代半ばの言論人、論壇人たちがお互いに「おれたちも大人にならなきゃな」「うん、そうだな」とうなずきあうということ自体、どう考えても「大人的」ではない。

たとえば一見、「大人になる」というさまざまな条件……、すなわち友人同士のコミュニティの構成員となる、地元・職場コミュニティの構成員となる、早いうちから結婚・出産・子育てを体験する、といったイニシエーションを通り抜けてゆくヤンキーたちが「大人になる」ことをそれほど厳密に考えているとは思えない。彼らはたぶん「そうしたいから、そうしなきゃならないから」そうしているだけだろう。
(さらに余談だが、「荒れる成人式」で暴れる新成人に妻子がいたりして驚かれるが、市町村が用意した儀礼としての成人式と、彼らが通過してきたイニシエーションがまったく乖離していることも、問題の複雑さを表していると思う。)

やっと最近自分なりの答えが出てきたが、90年代初めの「大人になれ論」の最大の欠点は、「その後の展望」がまるで面白くないということだ。
いや、もちろんそこら辺も論者は考察はしているのだが(簡単に言えば日々のつまらない生活の中に楽しさを見いだしなさい、みたいな感じか)、どうもお坊さんか落語家の大師匠のお説教みたいで、「そりゃそれが正しいんだろうけどさあ」という印象。本当にできるのかなと感じていた。

で、いいかげん虚しいと思っていたところに出てきたのが90年代半ばの、「オタク再評価」の流れである。
あれから15年が経ち、オタクのライフスタイルやものの考え方はあるものは定番化し、またあるものは後続世代から反感を買っている。が、忘れてはならないのは「大人になれ論」が取りこぼしていった大量のものを当時の「オタク再評価」の機運は持っていたということだ。

90年代半ばまで、文化人にとって「オタク」というのは、積極的に評価したとしても「鍛えてやれば、まともになるかもしれないよ」という、「上から目線」からの「零落したインテリ」という評価でしかなかった。
それが、90年代半ばに「底上げされた大衆」としてとらえなおされた。この意味は大きい。

(東浩紀は「オタクの中で起こっていることが世の中の先を行っている」的なことを主張していると記憶しており、その根拠は私はよくは知らないが、「底上げされた大衆」だから、と考えるといちおう合点は行く。)

「零落したインテリ」と自認して卑屈になるより、「底上げされた大衆」として楽しく遊んだ方がはるかに健康にいい。

そこを、90年代初めの多くのインテリ連中はわかっていなかった。受け皿はおまえらのとこだけじゃないんだよ、と突きつけられているのに、彼らは気づいていないフリをしてたんですよ。

・その5
95年からのだいたい10年間は、後はひたすらオタクがオタクの問題点を洗い直すことに終始したようにも思う。たとえば一部のオタクから「恋愛至上主義批判」が出てきたが、これは「大人になれ論」からは出てきにくい考えだ。なぜなら、恋愛して結婚することは「大人になること」の必須条件のようにとらえられがちだから。
で、最近はアキバの殺傷事件や長引く不景気とあいまってオタク的ライフスタイルにもいろいろと反発的感情が起こっていると私個人は思っているが、それにしても90年代初頭からの言論シーンは本当に魅力的なものがなかったなあ、と思う。

しかも三十代はじめに「大人にならなきゃ!」と主張していた彼らが現在、四十代半ば〜後半になって再びミドル・クライシスをうったえているのを知ると、「何なんだよ」とちょっと言いたくなる。

90年代半ば以降、マジメに働いて家に帰って深夜アニメを楽しむのと、マジメに働いて家に帰って一生学者になれもしないし知識が届きもしないのにこむずかしい本を読むのとでは、どちらに生活のリアリティがあるかといえばぜったい前者だろう。

私個人は現在、「オタク」とか「ヲタ」といったものはただそれだけでは完璧なライフスタイルたり得ないと考えているが、それにしたって人間は不完全なものに強く惹かれることが、あるのである。

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