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【雑記】・「幸福モデル問題」

ここの続きと言えば、続き。
「孤独死」、「無縁死」を人が恐れるのは、その前段階として「孤独な生活」があり、そのさらに前段階として「結婚できない」、「離婚される、つれあいに先立たれる」、「地域のコミュニティと寸断された生活を強いられる」といったことがあり……というふうに、逆算するからだろう、と思いついた。

・その1
ではなぜ、人は「死(とくに老齢になってからの)」に際して逆算して考えるのか。それは、「人生で参考にすべき幸福モデル」に、近い幸福を自分が得られないかもしれない、いや現にそういう生活をしている、という不安を感じるからだ。

だいたい、行き当たりばったりの人生を確信的に送っている人が、自分の人生の結末にまで想像力をはたらかせるとも思えないので。

では「理想の死」とは何だろう。大勢の子供や孫たちに囲まれて、惜しまれながら、苦しまずに眠るように……というのが普通だろう。

前にも書いたが、人は「最高の死の瞬間」を得るために生きているのではない。しかし、「最高の死の瞬間」を得るための前段階の「まずまず成功したと言える人生」は目標に生きている。
多くの孤独死、無縁死に関する議論には、「人生設計において、どういうものが理想の幸福な人生か」という視点が欠落している(あるいはステロタイプな「理想の人生」を無根拠に肯定している)。
だから、一足飛びに「死」について語るから、おかしな感じ(私にとってのおかしな感じ)になるのだと思う。

したがって、「幸福な死を得ることが、その人の人生にとって最高なのか? 69歳まで不幸で70歳で幸福な死を迎える人と、69歳まで幸福で70歳でどん底の死を迎える人とでは、総合的にどちらが幸福なのか?」という疑問も成り立つ。その疑問そのものは正しい。

しかし、「理想の死(を伴う理想の人生)」に疑念を抱いた場合、それに代わる人生を具体的に提示できる人がどれほどいるかというと、私も含めてそんなにいないのである。

人間、トシとってからみじめな思いをするのはイヤなので、たとえばパンクで破天荒な人でもある程度サクセスしている人の人生はもてはやされる。
しかし、「トシとってからみじめになるかもしれない」という懸念は、思いのほか人の行動原理を規定している。

人は、他人の死から遡行してその人の人生を「幸福な人生だった」、「不幸な人生だった」と診断(?)してしまうクセがある。
そんなに、ものすごく親しいわけではない故人の葬儀に出た帰り道、その人の人生について「評価」してしまうことは、不謹慎だがありえることだ。

そういうことから考え直さないといけない時代かもしれない。

・その2
それと、私も含めて「子供がいない人生」を送っている人はたくさんいて、それを否定するものでは決してないし、パンクな、自分勝手な、世の中のことなんかヘとも思っていない生き方を否定するものでもないが、「幸福モデル」というのは、子供を産み育てて、次代につなげていく、そのことが快適にできる社会、というのを大前提としないと、新しいものにはなりにくい。

「そんなこと何にもやらず、人類全体が滅びて行こうよ」という考えも、考えとしてはありうるがやはり王道にはなりにくいだろう。

私が考えているのはやはり世界全体の説明原理となりうる「思想」の問題である。
どうも今はそういうのを必要ないと思うというか、忌避する傾向すらあるのだけど、自分はやっぱりそういうのは大事だと思いますよ。

そういう意味では、確かに「孤独死フォビア」はバカげているけど、返す刀で「じゃあやりたいほうだいやっちまえ」というのも、文学としては成立するかもしれないけど、思想としては成立しにくいのではないか。

ま、あといろいろあるけどそっちは割愛。

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